2019年02月01日
記憶の澱・7
夏を過ぎたあたりから、リョーコを見掛けなくなった。
一ノ宮に聞くと、体調を崩し、勤めていたクラブも止め療養しているのだと言う。
……他にも、黒川との関係や、どんな出来事があったのかなど聞きたかったのだが、一ノ宮も黒川に遠慮してか、あまりはっきりした事は教えてくれなかった。
『……特に何かあって喧嘩別れ、ではないようですよ。……まあ、社長も…ああいう方ですからね、……難しいのでしょう』
黒川と一緒に仕事をしている一ノ宮は、部下というよりも友人といった感じで、黒川が唯一気を許している男だった。
物腰穏やかに、静かに笑みを浮かべる。およそこの界隈の人間には見えない一ノ宮を、イツキは好きだった。
『……腕は?……痛みますか?』
『……ううん。……平気』
無意識のうちに腕をさすっていたイツキを、一ノ宮は心配する。
昨夜の「仕事」では無理な体勢を取らされ、振り回した腕を掴まれ、激しく引かれ、少々捻ったようだった。
一ノ宮は甘いコーヒーを淹れる。イツキは痛くない方の手でそれを受け取る。
『……一ノ宮さんは、……マサヤのこと、……どうなの?………ああいう人でしょ?』
『…はは。……まあ、古い付き合いですからね、…あれでも……』
一ノ宮も自分のコーヒーを啜る。話ながらまるで、男女の話のようだと、小さく笑う。
『……ごく、稀に、人を気遣う時もあるのですよ』
そんな冗談を言った。
2019年02月04日
記憶の澱・8
「……リョーコさんや、一ノ宮さん、いなかったら…、俺、……駄目だったな…、きっと………」
イツキは独り、そう呟きながら、二本目のビールを飲む。
…酒は、意外と早い内から飲まされていた。
もともと家で、両親はよく晩酌をしていて、イツキは小さい頃から、ちょっと口を付けてみる……などという悪戯をしていた。
多分、体質的に強い、という事もあるのだろう。
ベッドで頭を押さえつけられ、キスと一緒に、度数の高い洋酒を口移しに飲まされ、
穴に、直接ボトルを突っ込まれ、否応なしに、中に流し込まれて……
そんな事を繰り返すうちに、普通の、ただの呑み助になってしまった。
『……………だ……め…』
酔うと感度が上がる気がする。ヤバイ薬を使われるよりは、マシだと思う。
『お前が勝手に動いているだけだろう?』
『……違う…、……だめ、……動いちゃう……』
仕事に出され、散々ヤられた後だと言うのに部屋に帰って、黒川の上に跨り腰を振るのは
……酒のせい、という事にしておく。
繋がった個所を擦り合わせるように、イツキは動く。
黒川はイツキの腕を掴み、時折腰を突き上げては、面白そうに笑う。
『もっとイイ顔を見せろ。…もっと…ぐちゃぐちゃになってみせろよ』
『……ひっ………う……う…』
『あー…、ヨダレは垂らすなよ、ふふ、汚ねぇな……』
『………め、………マ………』
そうやって、酒とセックスにすっかり溺れた中学三年の秋に
イツキは、リョーコが死んだと言う、知らせを聞いた。
2019年02月06日
記憶の澱・9
リョーコの詳細について、勿論、イツキは黒川に質問したのだけど
黒川は面倒臭そうに、軽くあしらうだけだった。
進行の早いガンで、半年ぐらいで散る様に亡くなったのだと、一ノ宮が話してくれた。
まだ人の死に触れたことのないイツキは呆然とし、どうしてよいものか、途方に暮れる。
それでも、『仕事』は休む暇もなく、理由も解らず、ただ何日も続けて涙を零していたりした。
黒川はもう本当に、リョーコの事を何とも思っていなかったのだろうか。
冬のある日。
客に抱かれたイツキは、真夜中になって、黒川の待つ部屋に帰る。
ちゃんと後始末が出来なかったのか、衣服は乱れ、髪の毛は濡れたままだった。
おそらく、一分一秒とて、その場にいたくはなかったのだろう。
用意された車に飛び乗り、冷えた身体をカタカタと揺らしながら、ようやく部屋に辿り着いたのだ。
黒川は相変わらず不機嫌そうに、ソファに座り煙草を吹かし、汚れたイツキを一瞥する。
『……そんな臭いナリのまま、帰ってくるなよ』
『…………ごめんなさい…』
黒川はそう言い、イツキは謝る。
それでも、ソファの自分の隣りにイツキを座らせ、イツキの震えが止まるまで肩を抱く。
それが黒川の、その時の精一杯の優しさだったのだと
今のイツキには、解った。
2019年02月07日
記憶の澱・10
「……………おい」
3本目のビールを飲んでソファでうとうとしていたイツキに、帰って来た黒川が声を掛ける。
イツキは薄く目を開け、辺りを伺い、夢とうつつの境目を探す。
「………マサヤ…?」
「…俺が出掛けてから、ずっとここで飲んでたのか?……馬鹿か」
「……ばかじゃないよ。……真面目に、……かんがえごと……」
「考え事ね。…くだらん悪巧みでも考えていたのか?……ふふ」
どうやらイツキは寝ぼけている様子。黒川は馬鹿にしたように軽く鼻で笑う。
自分も冷蔵庫からビールを取ると、ソファのイツキを少し脇に追いやる様にして、その横に座った。
缶を開け、煽る。
もう片方の手はイツキの頭に置かれ、暇つぶしのように髪の毛をくるくるとやる。
「………指輪はさ、………マサヤが、あげたやつだったの……?」
「………うん?」
突飛な質問に、黒川は、やはりイツキが寝ぼけているのだと思う。
けれど、見れば、イツキはいたって醒めた目で、黒川のことを見上げていた。
「……指輪?………何の話だ?」
「リョーコさんの、………赤い石がついたの…」
「……リョーコの?」
2019年02月09日
記憶の澱・最終話
「……リョーコと付き合っていたのは昔の話だ。お前が知る頃には、もう、とうに別れていて……」
イツキに請われるまま、黒川は、珍しく素直に昔話に興じる。
イツキは黒川の手の平の下、眠そうな瞼をぱちぱちとやって、声に耳をそばだてる。
こうやって黒川が自分自身のことを話すのは、酷く稀で、それだけイツキに対して、きちんと向き合う様になったのだと
………きっとリョーコがいれば、嬉しそうに微笑む。
「……まあ、別に、将来を約束した仲でもないし、別れたのも、何があって…という、訳でも無い。
元々、ウチで持っていたクラブの女で、最終的には何店舗か、任せていて…
……仕事仲間、……腐れ縁、……戦友、……ふふ、恋人だなんてイイ物じゃなかっただろう……
指輪は…、そうだな、誕生石が付いたやつを、やったかな……、安物だがな……」
「……リョーコさん、ずっと、持ってたよ……」
「………ふぅん」
黒川はビールを飲み、一息ついて、話はそこでお終いだった。
記憶の底に溜まった澱は、ふわりと浮かび、また沈む。
それは、今の二人には、もう必要のないものだった。
記憶の澱・おまけ
事務所のあたりをプラプラ、二人で歩いている途中
ふと、イツキが目を止めたのは、宝飾店のショーウィンドウ。
別に、本当に、ただ何気なく視線をやっただけだったのだが
何故だか黒川も気付き、ふふと小さく笑う。
「…欲しいのか?」
「………えっ、……何?」
「この間から、指輪がどうの、言ってたからな…」
「…指輪?……いらないよ!……ただ、見ただけだよ、キラキラしてたから……」
黒川は冗談半分でイツキをからかう。
イツキは妙に気恥ずかしくなって、無理に顔を背けて、その場から立ち去った。
将来を誓い合った男女でもあるまいし。
なぜ、そんな物を黒川に買って貰わなければならないのか、意味が解らない。
しばらくそのまま街中を歩き、知り合いの店に顔を出して、事務所に戻ろうかという頃。
今になって黒川は、一瞬でも、イツキが指輪を欲しがっていると思った自分に、苛立つ。
冗談してもタチが悪い。そんな仲でもあるまいし、気色が悪い。
それとも、口実を付けてでも、何かの形を残して置きたいとでも思っているのか。
何を血迷ったかイツキ相手に、将来を、約束するとでも言うのか。
「……あ、マサヤ、…あれ…」
「…なんだよッ」
「ハミガキ粉、切らしてた。買ってくるね」
つい不機嫌に声を荒げた黒川だったが、イツキはまるで、それに気付くこともなく
笑って、コンビニを指さして、一人で走って行ってしまった。
2019年02月12日
いつもの夜
淫乱で、ほぼセックス中毒のイツキと
非道で、年の割には性欲のある黒川が、一緒にいるからといって
夜な夜な、それに、明け暮れている訳でもなく。
普通に、温かいお茶などを飲み、テレビなどを眺める夜もある。
映画ばかりを流すチャンネルがあり、見始めてしまうと、最後まで、見てしまう。
黒川はソファに座り、
イツキはその足元に、クッションを膝に抱えながら、好きな恰好で寛ぐ。
「……え、さっきの誰?………あのヒゲの人?」
「………ああ」
「……結局、悪者?……騙されてたの?」
「………ああ」
たまにイツキが質問をし、黒川は面倒臭そうに答える。
映画を見終わる頃には、いい具合に眠たくなり、そのままベッドに入る。
イツキは黒川の腕の中で、「……あの人、戻って来るかと思ったのに…」と、映画の物語の愚痴を零す。
黒川は「………そう、上手くはいかんだろう」などと言い、もう、今日は終いだという風に、小さく息を付く。
唇を重ねるのはどちらともなく。
ただそれだけの、話。
2019年02月13日
訳アリの子
好きだの嫌いだの愛しているだの、正直、よく解らなかったが
とりあえず、一緒にいて問題も無かったので、そうしていたのだけど。
そんな普通の日々が、急に、変わってしまうと、
驚きを通り越して、何も、感じられなくなってしまう。
ただ息をして、必要な食事と睡眠を取って、愛想笑いを浮かべ、生きているだけ。
都心から車で2,3時間の場所にある北関東の地方都市。
お世辞にも栄えているとは言えないが、まあ、必要最低限のものは揃う駅前商店街。
アーケードを抜けると、もう、住宅地と田園風景が広がる、のどかな町。
冬には積もるほどの雪も降るのだが、5月の今は、日差しも柔らかく過ごしやすい陽気。
平屋建てに納まるその会社は、美容雑貨などを扱う仕事をしていた。
道の駅などで売られる、ハンドメイドのクリームなどを取り次ぎ、都内のデパートに卸したり、手作り石鹸を開発してみたり。
事務所の半分は作業場になっていて、それら小口の商品に、自分たちでラベルを貼り、梱包し、あちらこちらに届けていた。
従業員は4人。
50代の気の良い社長と、その奥方。
40代のパートの主婦と、30手前の、少々騒がしい女の子。
そこに先週から、新しいバイトが働きに来ていた。
「……ね、ね、小森さん、……あの子と話し、しました?」
「しませんよ。……ミカちゃん、手、動かして」
「地元の子じゃないし、急にこんな所で働くなんて、おかしいですよね?……絶対、訳アリですよねぇ?」
ミカと呼ばれる女の子は新しいバイトが気になって仕方が無い様子で
伝票整理の合間に作業場を覗き込んでは、しきりに、主婦の小森に話しかけていた。
2019年02月15日
噂の新人
「……ハイ。練り石鹸。ユーカリとカモミール、30ずつ…確かに。
このシリーズ、好評ですよ。次から数量増やす予定でいます……」
「助かるよ、林田くん。ウチみたいな小規模だと、やっぱり販路が限られちゃってね…」
「ハーバルさんの商品の良さは折り紙付きですからね。バンバン売って来ますよ!」
小さな会社はハーバルと言い、地元の農家と契約して、石鹸などを作っていた。
林田は商事会社の買い付け担当で、時折ここを回っては、商品を仕入れていた。
ある程度仕事の話を済ませると、後は、社長夫妻と世間話などをする。
ミカが、お茶の用意をする。
「……そう言えば、新しい人、雇ったんですって?早速事業拡大ですか!?」
「…いやいや、そんなんじゃ、ないですよ。…まあ、…ちょっと知り合いの紹介でね。…まあ、人手も足りなかったし、…丁度良かったですよ」
「……へえ?」
少し、歯切れの悪い物言いの社長。
林田は、何か事情があるのかな、という風に、ミカを見る。
ミカは、解らない…と首を横に振り、その新人がいる、作業場の扉に目をやった。
丁度その時、作業場の扉が開き、噂の新人が出て来た。
皆が一様にこちらを向いている気がして、驚いた様子で目を丸くし、とりあえず頭を下げる。
作業用のエプロンにアームカバー。頭にはバンダナを被り、少し長い髪の毛は、後ろで輪ゴムで結んでいた。
「…えっと。……ラベル、全部貼って、色で分けて、箱に戻しました」
「ありがとう。あ、説明書、入れた?」
「はい。…説明書と案内の2枚。…中表で折って、入ってます」
「お、バッチリだね。ありがとう」
社長にそう言われ、イツキは、ニコリと微笑んだ。
2019年02月17日
新人歓迎会
その日の仕事が終わると、社長の誘いで、皆で食事に行くことになった。
取引先の林田も一緒。ハーバルは良くも悪くも小さい会社で、家族ぐるみのような親密な付き合いをしていた。
イツキは、最初は断っていたのだが、自分の歓迎会も兼ねてと言われては、無碍にすることも出来ず…、仕方なく参加する。
駅前にある、チェーンの居酒屋。隅のテーブルに、社長、奥方、ミカ、林田、イツキ。
パートの小森は家に小さな子供がいるそうで、挨拶だけすると、お先にと帰ってしまった。
「……えっ?……イツキくん、19歳なの?…もっと若く見えるよ、カワイイ顔してる!
お肌、ツルツルじゃん。髪の毛は染めてるの?不良なの?
ね?どこの子?…中学、どこ?…あ、地元じゃないんだっけ?……モツ鍋、3辛でいい?」
「………ミカちゃん、飛ばしすぎよ…」
賑々しくミカが捲し立て、奥方が諫める。
もっとも、こんな調子に社長も林田も慣れているようで、苦笑いを浮かべ、申し訳なさそうにイツキを見る。
「だってぇ、全然、話す機会無かったじゃないですかー。聞きたいこと、沢山あるんですよー。
みんなビールで良いですかぁ?
あ、イツキくんは飲めないんだっけ、何にする?」
「………ウーロン茶で…」
飲み物がテーブルに並び、モツ鍋ようのコンロも置かれ、とりあえず皆で乾杯をする。
イツキはジョッキに入ったウーロン茶を飲みながら、マシンガンのようなミカの質問攻めを、曖昧に笑ってはぐらかした。
2019年02月18日
歓迎会・2
「どう?仕事、慣れた?細かい作業ばっかりでしょ?あたし、苦手なんだー。イツキくん来てくれて、良かったよー」
ミカはイツキにそう話し、明るく笑う。
指先には綺麗に塗られたネイル。若干、重たそうなそれでは、確かに仕事も難しいだろう。
「……俺、……あんまり出来るコトが無いので。……出来る事なら、……何でも…」
「うわっ、良い事言うなぁ。ミカちゃん、見習わなきゃだよ」
「林田さん、ひどーい!」
ミカと林田は随分と親し気で、冗談を交えながら、肩などを軽く叩いている。
実はミカの方が年上なのだが、落ち着きがないため、そうは見えない。
キャッキャと笑い、酒も強いのか次々とグラスを空け、皆のサラダを取り分ける。
賑やかな女性だが、イツキは案外、嫌いではない。
自分が何かをしなくても、場が明るくなるのなら、それはそれで有難い。
「ところでさイツキくんって、彼女、いるの?」
「……えっっ」
突飛な質問に、イツキのみならず、林田も驚き、思わずビールを吹きそうになる。
「…ちょっとミカちゃん、イキナリ何、聞いてるのさ」
「…えー。一応、聞くの、お約束でしょー? ね、ね?どうなの?」
ミカは身を乗り出し、イツキに顔を近づける様にして、そんな質問をする。
イツキは勢いに押され、少し怯みながら、「……いません」と首を小刻みに横に振る。
「………え、そうなの?……じゃあ、もしかして、チェ……」
「ミカちゃん、いい加減にしなさい!」
極めてデリケートな質問をしかけたところで、ミカは再び奥方に一喝され
少しはしゃぎ過ぎたと肩をすぼめ、ぺこりと小さく頭をさげるのだった。
2019年02月19日
歓迎会・3
「……ごめんなさいね、イツキくん。ミカちゃん、悪い子じゃないんだけど、ちょっと、おしゃべりでね…」
「……いえ……」
「多分、嬉しいのよ。こんな会社でしょ、毎日、マンネリで詰まらなくて…。あなたが来てくれて、はしゃいじゃったのね」
少し飲み過ぎたとミカがトイレに立つと、奥方が済まなそうに、イツキにミカの非礼を詫びる。
60を過ぎた社長夫妻では、ミカの好奇心を抑えきれないのも仕方が無い。
「……大丈夫です、俺、別に、ぜんぜん。……話しかけてもらえて、嬉しいぐらいです」
「……あら…」
はにかみ、そんな可愛い事を言うイツキを、奥方も嬉しそうに見返す。
今時、こんなに素直な子供も珍しいと、逆に不思議で、少し不安になるほど。
一週間前に、突然、主人である社長が、少年を雇うと言い出したのだ。
知り合いの、ツテで、どうしても、断れず。
詳しい話は聞けなかったのだが、少年は、家庭環境に問題があるとか、どうとか…。
ともかく、今の居場所を離れ、遠くに行きたいのだと言う。
「……家庭に問題って…、親御さんと折り合いが悪いとか、……まさか、虐待?……可哀想にねぇ……。
まあ、何にせよ、しばらく、環境を変えるのも、必要よね…。
子供って言っても、もう大人だもの。
ちょうど、在庫置き場で借りているアパートの部屋も、空いているし。
一人で生活して、一人で生きて行けるようになれば、それも道、よねぇ…」
奥方はあれこれ想像し、一通り、納得し、イツキを受け入れた。
その解釈は、あながち、間違いではなかった。
2019年02月21日
歓迎会・4
「じゃ、お疲れ様です」
そう言ってイツキは頭を下げて、歓迎会の席を後にする。
もっとも、酒は一滴も入れていないのだ。これ以上、この場にいても意味は無い。
社長と奥方も、お先にと帰る。
まだ飲み足りないのか、林田とミカだけ残り、最後にもう一杯とビールを注文する。
「……ちょっと変わった子だね、イツキくんって…」
「そーですかー?ただの内気なオタクなんじゃないですかー?」
「いやいや。…まあ、真面目に働いてくれるなら、いいよね。ハーバルさん、来月の物産展に向けて忙しいでしょ?」
「そーなんですよー。もー、大忙しですよー」
ミカはジョッキを煽りながらくだを巻く。ずい分、酔いが回っているようだ。
林田はまだ余裕があるようで、……失礼ながら、こんな地方の、こんな小さな会社に、わざわざ勤めに来る少年が、気になる様だった。
……犯罪、などに関わっていなければいいが……と、心配する。
「………林田さん」
「え、何?ミカちゃん」
ふいに、ミカが声を潜め、身を乗り出し、顔を近づける。
訳あり少年の話か、それとも、何か別の色っぽい話かと、林田も顔を近づける。
「………ミカ、……気持ち悪い……」
そう言って、ミカは立ち上がり、トイレへと駆け込むのだった。
駅前から一旦、作業場に戻る方向。その先に少し行ったところに、会社が在庫置き場で借りているアパートがあって、その一室にイツキは寝泊まりしていた。
新しくも、綺麗でもない。普通の木造アパート。
暗い、独りの部屋に帰るのかと思うと憂鬱で…、イツキは大きなため息をつきながら、ギシギシと鳴る階段を上がった。
こんな状況になったのには、当然、理由がある。
2019年02月22日
夜逃げ
事が起きたのは3月の終わり。
無事に高校を卒業し、束の間の穏やかな日々を過ごしていた時だった。
それは、あまりにも突然だった。
事務所から部屋に戻って来た黒川はいつになく険しい顔をして、イツキに、すぐに出かけるから支度をしろと言う。
藪から棒に何を言い出すのかと、イツキが驚いていると、とにかく2,3日泊まれるだけの荷物を作れと、大きなバッグを放り投げた。
訳も解らず、取りあえず、下着やシャツや、最低限のものを掻き集める。
「……何?……夜逃げ?」
車に乗り、イツキは半分冗談めかして尋ねるも、黒川はまだ黙ったまま。
もしかして、本当にそうなのかも…と、イツキは少し、心配になる。
「………大丈夫だと思うが……」
都内を抜けた頃、ようやく黒川が重い口を開く。
「光州会が代替わりしてな。新しく頭になった高見沢が厄介でな……」
「……光州会って…」
「お前の親父が揉めた所だ。…先代との間で、もうカタは付いているんだが…、今になって、ちょっとな……」
さも嫌な話をするように、黒川は顔を顰め、溜息を付く。
けれど、イツキの杞憂は、黒川の比では無かった。
2019年02月24日
夜逃げ・2
「……だって、……全部、終わったって…。マサヤがお金、返してくれて…、……それで俺、マサヤのになったんでしょ…。……今更…」
「だから代が替わったと言っただろう。若造、先代の契約は知らんとゴネ始めて…、…何か、別口の借金の借用書が出て来たとか…、まあ、インチキだろうが…」
「…借金。…お金、……いくら?」
降って湧いた災難を説明しながら、車はさらに奥へ進む。
道路の案内標識に「群馬」の文字を見付け、イツキは思わず二度見する。
「金じゃない、お前だ。とにかく、岡部の息子を出せと言っている。
……さすが、売れっ子だな。引く手あまただ。……ふふ、いい、金づるだからな…」
悪態は決して本心ではないのだろうが、そう零しでもしないと、気が収まらないのか。
到着したのは地方都市のビジネスホテル。
チェックを済ませ、二人で部屋に入り、途中、コンビニで買った弁当などで腹を満たす。
イツキは、何を食べても、味がしない。
口の中が渇き、ザラザラとし、無理やり物を飲み込むと、胃の中がズンと重たくなった。
「……お前、しばらくここで、隠れていろ。とりあえず、状況を整理せんと、どうにもならん」
「……しばらくって、……どれくらい?」
「2,3日か、…一週間か…。まあ、そんなに長引かせるつもりも無いが……」