2019年03月01日
夜逃げ・7
『……イツキちゃん、今から会えないかな?……話し、しようよ』
『………えーと…、ダメです……』
『家、近くだよね?……ちょっとだけでも』
『……俺、今、……離れたトコにいるんです…』
食い下がるミツオに、上手な嘘が付けないイツキは、ざっくり、かいつまんで状況を説明する。
身辺で少々トラブルが起きている事。それによって、この場所を離れている事。
本当に、ミツオの美容院で働くことを楽しみにしていたのだけれど、この先の予定が立たない以上、それはお断りした方が良いという事。
『………ごめんなさい…』
『……そっ……か……』
ミツオはイツキの状況のすべてを知っている訳ではなかったが、それでも特殊な事情があることは承知していた。
あの歳で、ヤクザまがいの男の恋人で、美人局のようなことをさせられて、男相手に身体を売って…、と、理解は当たらずといえども遠からず。
『…お店に、迷惑掛けちゃいますね』
『ああ、いや、まあ…、オープニングは人数揃えてるから、多少のカバーは出来るよ、…心配しないで。……それよりもイツキちゃんだよ、この先はどうするの?……ずっと、戻れないの?』
『……んー、まだ全然…解らないです。……ふふ、誰も知らない町で、仕事見つけて、一人で生きていくかも』
冗談めかして、イツキが笑う。
けれど、それは、まるで冗談にもなっていなかった。
電話の向こうで、イツキが不安に揺らいでいる様子が、ミツオにも解った。
『……イツキちゃん。……どうにも、本当にどうにもならない時の、保険みたいな話なんだけど……』
2019年03月03日
夜逃げ・8
『…群馬に、知り合いの会社があって、美容用品とか扱うトコなんだけど…』
『……え?群馬!』
『…そう。…ん?……イツキちゃん、今、群馬にいるの?』
あえて居場所は伏せていたのに、あっという間にバレてしまう。
『…それなら丁度良かった。…うん。…小さい会社だけど、ウチの美容院のノベルティとか作ってもらってるトコで…、ほら、イツキちゃんが箱詰めした石鹸とか……』
ミツオの話では、その会社は昔からの付き合いがある所で、社長とも懇意にしている所で。
実を言えば遠い親戚筋で、ともかく多少の無理が効く所で。
もし、そこで仕事をする気があるのなら、相談に乗れるという事だった。
『………あ。…ありがとうございます。…でも、俺、まだそこまでは考えてなくて…』
『うん。だから、保険。もし、どうしても困ったら、思い出して』
『…ありがとうございます』
そんな事を話して、電話は切れた。
一方的に、予定していた仕事をキャンセルしたというのに、ミツオは優しく対応してくれた。
その優しさが、今のイツキには特に身に染みる。
そして、あまりにも優しくない男の事を思い出させた。
確かに今は、身を潜めていた方が良いのかもしれないけれど
あの男は、このまま自分を放っておく気ではないのだろうか…とさえ思う。
先行きの不透明さが、一層イツキを、憂鬱な気分にさせた。
それでも、黒川も何もしていない訳ではなかった。
ようやく光州会の高見沢と直接会うアポイントが取れ、一ノ宮と一緒に、指定された場所に向かっていた。
都内のビルの上階にある、小さなクラブ。
「女」の話をするには、組の事務所よりもこんな場所の方が良いと、お互い思っていた。
店内に客は数名。みな、高見沢の手の者だろう。
簡単な挨拶を済ませると、黒川は一人、奥のボックス席に通された。
2019年03月06日
夜逃げ・9
一ノ宮は少し離れたテーブル席に座っていたため、黒川と高見沢の会話は聞こえなかった。
何か、物騒な事にならないかと様子を伺うと、それは杞憂で、お互い笑顔など浮かべ普通に話をしているようだった。
どだい、今更イツキを出せなどと言うのは、可笑しな話なのだ。
難癖を付け、無理な交渉を持ち込んでいると、高見沢にも解っているだろう。
「………ウチとしてもあまりオオゴトにしたくないんですわ。……何で黒川さんが、あんな子供を庇うのか解りませんな。……ほんなに、……エエんですかねぇ」
背が低くでっぷりとした体形の高見沢は、芋虫のような指で酒のグラスを持ち、前のめりになってニヤリと笑う。
歳はおそらく、黒川と同じぐらい。
……イツキが、嫌うタイプだと、黒川は気付かれないように小さく鼻で笑う。
「高見沢さん。俺も、大事にする気はないし、長引かせる気もない。
…話はとうに先代との間で済んでいる。…どう因縁つけられても、アレは、俺のでね…」
「はぁ、大した入れ込みようじゃけぇ、……そりゃぁ、ますます……」
「欲しいモンがあるからって、駄々をこれられちゃぁ、困る」
黒川は煙草を吹かしながら、半ば面倒臭そうに、そう言う。
買い被りすぎだ。「イツキ」は、そういいモンじゃない…と思いながらも、勿論よそにやる気はない。すでに良い、悪いの問題ではない。
「…じゃけぇ、……岡部の親父との借用書が………」
2019年03月08日
夜逃げ・10
「いい加減にしろよ、高見沢さん。岡部の件は、俺と先代との間でカタが付いている。
光州会は、今後一切、岡部には関わらない。それが、男と男の約束だぜ?
それを、ないがしろにする気かよ?
先代の決め事にケチを付け、反故にして……、……あんた、そんな所で力をアピールしている場合じゃないだろ?」
「……どういう意味や?」
「……大人しく、先代のやり方を踏襲していた方がいいって事だ。
あんたが先代をコケにしているとなれば、それを逆手に、騒ぐ奴らもいるんだろう?
…代替わりで揉めるのは、…よくある話だよなぁ…」
黒川は声を荒げるでも威嚇するでもなく、ただ静かに、淡々と話す。
回りくどい説得は性に合わないが、腕っぷしでどうこうする話でもない。
岡部の件を蒸し返すのは、高見沢が先代を馬鹿にしている事になるのだと、思わせればいい。
黒川はグラスの酒を飲み、高見沢も、酒を飲む。
元々、無理な喧嘩を吹っ掛けている自覚はあるのだ。黒川に言われた事は、あながち間違いではないと知っていた。
とは言え、出した手は、なかなか引っ込める事も出来ない。
高見沢は小さく唸り、空になったグラスをテーブルに置く。
そのグラスに、黒川が酒を注いだ。
「……まあ、…高見沢さんの言い分も解りますよ。
……ふふ、ウチも岡部には、エライ迷惑を掛けられたんでね……」
2019年03月10日
夜逃げ・11
一ノ宮は少し離れた席に座り、黒川と高見沢の様子を伺っていた。
岡部の件をぶり返す事は先代の意向に背く行為なのだと、その方向で交渉を進めると、事前に話はしていた。
最初はお互い険しい顔で、一触即発といった緊張感もあったのだが…次第に場は和み
終いには笑い声をあげ、高見沢が親し気に黒川の肩をばんばんと叩く場面もあった。
「行くぞ」
やがて黒川が席を立ち、一ノ宮に声を掛け、店を出る。
建物を出てしばらく繁華街を歩き、口直しにと、騒がしい大衆居酒屋に入る。
スーツを着込んだこの二人は眼光こそ厳しいものの、大人しくしていれば意外と、普通のサラリーマンの群れに馴染んでしまう。
案外こんな場所の方が、密談には向いているようだ。
「……どうでしたか、高見沢さんは…」
「は。カワイイもんだ。……まだ、先代の影響力は強いようだな…」
「まあ、元々、済んだ話ですからね。…この程度で引き下がってくれて、良かったですね」
「…ふん」
グラスの冷や酒を飲みながら、ようやく一息つく。
……適当に脅して、宥めて、持ち上げて……、と、交渉の常套手段だったが、好きなやり方では無かったのか、黒川は少し不満気だった。
『イツキは俺ものだ、もう、誰にもやらん』と、真っ向切って、喧嘩をする。
……訳にもいかないだろう、と黒川は自問自答し、小さく笑う。
「…イツキも悪目立ちし過ぎだな。笠原といい、高見沢といい…、面倒な輩が寄ってくる…」
「……それはあなたが、中途半端な立場のまま、イツキくんを連れ回しているからでしょう」
騒がしい店内で一ノ宮の小言は聞こえなかったのか、黒川は軽く顔を上げただけで、特に返事はしなかった。
「……とにかく。……もう少しコトが落ち着くまで、イツキは外にやる…」
2019年03月11日
夜逃げ・12
「………俺、まだ、帰れないの?」
「……ああ」
真夜中。
イツキと黒川は電話で話す。
イツキは昼間から何度か電話を掛けていたのだが、黒川は一向に出ず、
…高見沢との会合が終わり、…少々、酒を飲んだ後に、ようやく、イツキに連絡を入れる。
黒川も忙しいのだ。この件ばかりに構ってはいられない。
けれど、イツキは、暇を持て余し過ぎている。イライラは限界に近く、すでに冷静な対応も取れないほどだった。
「光州会の人と話し、したんでしょ?……何?……俺、……そっちで働かなきゃダメって事?」
「……いや、それは無くなったんだが……」
「じゃあ、なんで戻れないの?……俺、こんなトコ、もう、やだ…、……一人で…!」
余程、腹に据えかねているのだろう。イツキはヒステリックに叫ぶも
それは黒川には耳障りなだけだった。
「……騒ぐな。……とりあえず、光州会の言い分は突っぱねたが、諦めた訳じゃないだろう。…熱が冷めるまで、もう少し……」
「もう少し?……もう少しって、どれくらいさ!?」
「……ウルサイ!」
電話というものは、厄介なもので
お互いの表情も、空気も何も解らず。
もし、目の前にいるのなら、とにかく抱き締めてやることが出来ても
それも叶わず。黙ってしまえば、それはもう、何もないのと同じになってしまう。
「………じゃ、俺。……もう、帰んない。………こっちで、仕事して、……住む」
「ああ。出来るなら、そうしていろ。……ああ、前みたいな、ウリはするなよ」
「……………バカ!」
イツキはそう叫んで、電話を切った。
2019年03月12日
夜逃げ・13
黒川にしてみれば、充分、してやったというのが感想だった。
イツキを安全な場所に隠し、高見沢と面倒な交渉を済ませ、さらに安全のため、距離を取らせる。
……手元に置いておけないのは、……多少の不自由はあるが、……まあ、ほとぼりが冷めるまでは仕方がない。
また誘拐だレイプだ、「仕事」に付き合わせるだ、……その都度イツキの様子を伺い、気をもむのも……厄介だろう。
イツキだって、それを望んではいない。
2,3日、連絡を取るのを忘れていたかも知れない。
イツキからの着信が無いものだから、うっかりしていた。
滞在していたホテルから、チェックアウトと支払いの連絡が来る。
まさか本気で、地方に住む気か。夜逃げ、からの、家出かよ…と、黒川は少し憂慮する。
「……イツキくん。その近くで仕事を見付けたそうですよ。住む場所も紹介されたそうです。……5月から働く予定だった美容室の、関連の、小さな工場らしいです」
見兼ねて、一ノ宮が口を出す。
黒川は、なぜ一ノ宮がそれを知っているのかと、いぶかしげに見返す。
「……イツキくんから連絡を貰いました。…あなたには、放って置かれたから、もう知らない…と、怒っている様子でしたよ」
「……あの馬鹿。……それ位の我慢も出来ないのかよ」
「…十分に話をしましたか?…心細い思いをさせたのでしょう?…せめて直接会って、説明してあげれば良かったのに……」
「はいはいはい」
一ノ宮の小言ももう聞き飽きた、という風に黒川は適当に返事をして
手を、ひらひらと振るのだった。
2019年03月13日
夜逃げ・最終話
「……すみません。お世話になります。岡部一樹です」
「ああ。ミツオくんから聞いてるよ。ウチも今、人手が足りなくてね、助かるよ。部屋、狭いけど大丈夫かな?」
「…ああ、もう、ぜんぜん。……ありがとうございます」
売り言葉に買い言葉。
あまりに黒川の態度がつれないものだから、つい、イツキは啖呵を切り、ホテルを飛び出してしまった。
ミツオはすぐに動き、仕事先の社長に連絡をし、段取りを付けてくれた。
「在庫置き場に使ってた部屋でね、向こうの部屋は荷物いっぱいで使えないけど、こっちは平気。
たまに従業員が寝泊まりするんで、一通り揃ってるよ。冷蔵庫とレンジとテレビ…、ああ、布団も使っていいからね」
「…はい」
「うん。会社は明日、案内するよ。今日はゆっくり休んでね」
「…はい」
会ったこともない見ず知らずの子供を雇うなど、普通ではありえないだろうが
そこは、ミツオと社長の信頼関係があっての事か、あまり深い詮索もせずに、イツキを受け入れてくれた。
ニコニコと笑う優し気な、初老の社長。
イツキはありがとうございますと、深々と頭を下げた。
忙しく状況が変わり、目が回る。
とりあえず、一ノ宮には連絡を入れた。
会社の名前も住所も教えたのだし、何かあれば、……何か、するだろう。……あの男が迎えに来たっていい。
現金も持っているし、銀行に多少の預金もある。しばらく生活するのに不足はない。
着替えや身の回りのものは、買い足せばいい。どうにか、生きていけると…思う。
「………ん。………大丈夫、大丈夫…」
イツキは自分自身に言い聞かせるように、そう呟くのだった。
2019年03月15日
新しい生活
翌日イツキは初めての職場に行く。
自己紹介をして、作業場を案内されて、細々した手仕事をして、一日が終わる。
正直、緊張し過ぎて、何をしゃべったのか、何をしたのか覚えていなかった。
夕方、帰り道、買い物をする。
部屋には生活用品一式、とりあえず揃ってはいたけど、タオルや、洗面用品や色々買い揃える。
服も何着か。特にこだわりは無いのだけど、下着の替えがないのはさすがに困る。
丁度、アパートの近くに大きなショッピングセンターがあり、そこで全てを用意できるのは助かった。
両手に荷物を山ほど持ち、どうにか部屋に帰り付き、食品売り場で買った総菜を食べながら、あれこれ、今後の事を考える。
あまりに、つれない黒川への、あてつけが半分。
これを機に、新しい事を始めてみたい、好奇心が半分。
「………ま、……どうにかなるんじゃない…、……多分」
不安や苦境を真に受けず、さらりと流す術は、今までの人生で十分過ぎるほど学んでいた。
もっと酷い事はいくらでもある。今回は、身体を売らない分、ラッキーなのだと思う。
それでも、
夜はやはり、寂しくて泣いてしまった。
一人で肩を抱き締めても、得られる温もりは、到底足りなかった。
2019年03月16日
普通のおばさん
社長は気の良いおじさんで、夫人も気の良いおばさんだった。
「……ミツオちゃんは甥っ子のお嫁さんの、弟さんでね、まー同じような、オシャレ関係な仕事でしょ? 前から付き合いはあってね。
でも、ほら、ウチはこんな田舎の小さな工場でしょ、5年くらい前に行き詰って、どうにもならなくなって…。
でも、その時にミツオちゃんが助けてくれたのよー。都内の美容室に置かせてもらってるオーガニックのクリームなんかも、その時のでね…」
のんびりとした昼下がり。
社長夫人とイツキは作業で手先を動かしながら、そんな話をする。
「だから、恩人ってワケ。それだもん、ミツオちゃんの頼みは断れないわよね。
ああ、でも、来てくれたのがイツキちゃんで良かったわー。
こんなカワイイ子! 働き者だし!」
「………いえいえ…」
夫人にしても、突然、見ず知らずの少年を雇って欲しいと頼まれ、戸惑いはあったようだ。
それでも、この2,3日で、すっかりイツキを気に入った様子だった。
やや歳が入ったご婦人特有の人懐っこい口調でイツキを褒め、イツキは耳まで赤くしてしまう。
「……住むところまでお世話になって、助かっています。ありがとうございます」
「いいのよー、困ったことがあったら何でも言ってね、あ、今度、ウチにご飯食べにいらっしゃい。ウチも息子がいるんだけど、もう家に寄り付かなくてね…年寄り二人、寂しい暮らしなのよー」
「………ありがとうございます」
良い人、というのは解るが、若干、押しが強いのが…、……イツキには慣れない。
考えてみれば今まで、「普通のおばさん」に接した事が無いのだ。
善意にどこまで甘えていいのか、替わりに、何かを差し出さなければいけないのか
どれが正解なのか、イツキには解らない事だらけだった。
2019年03月17日
ミカちゃん
右も左もわからないまま、新しい場所で、どうにかイツキは頑張っていた。
家のものも大分揃い、会社では歓迎会まで開いてもらい、自分でも馴染んで来たと思う。
数えてみれば、黒川に突然連れ出されてから、一か月が過ぎていた。
あまり、考えないようにしていたのだけど。
……考えると、未だに、胸が苦しくなってしまうのだけど。
それでも新しい暮らしは意外と楽しいものだと気付いた。
「イツキくん、今日のお弁当、どっちにする?豚の生姜焼きか唐揚げ。
あ、でもニコニコ堂の生姜焼き、ちょっとしょっぱいんだよねー。アタシ押しは唐揚げかな!」
「じゃあ、ミカさんのお勧めで」
「よし。ポテトサラダも付けちゃおう。…やだ、ダイエットは明日からにするー」
歳が近いミカとは気軽に話せるようになった。
元々イツキは、このタイプの女性は嫌いではない。
きゃっきゃと明るく華やかで、その場を盛り上げてくれる。
昼休みには一緒に、近くの弁当屋に買い物に行くようになった。
「イツキくん、あのアパートに一人暮らしなんでしょ?ご飯、どうしてるの?」
「……んー。適当です。駅前で何か食べるか、コンビニで買い物するとか…」
「へー。大変―。アタシ、無理だなー。今は実家暮らしだしー」
「ご飯は何とかなるんですけど…、お風呂が……、……狭いのが嫌で……」
アパートには一応、風呂は付いていたが
浴槽は、膝を抱えて入るのがやっとのほどの小ささだった。
安いラブホテルでさえ、こんな風呂には入ったことはないと、イツキは毎晩シャワーだけで過ごしていた。
「あー、知ってる。あそこ、狭いよねー。
あ、じゃあさ、今度、日帰り温泉行こうよ。近くにあるんだよ、岩盤浴もあってね…」
ミカとお喋りして過ごす時間は、結構、楽しいものだった。
2019年03月19日
小森さん
イツキは、イツキで
電話は、黒川がかけてくるべきだと、思っていた。
言われた通り身を潜めているし、居場所は一ノ宮に伝えてあるのだし
後は黒川が折れ、『大丈夫か?様子はどうだ?悪かったな』と連絡を入れるべきだと思っていた。
けれど同時に、……黒川はそんな事はしないとも、……知っていた。
「…………ばか…」
待っている訳でもないが、つい時間が空くと、スマホをチェックしてしまう。
案の定、何の通知もなく、イツキは小さく溜息と悪態を付いた。
「…何か、…待ち?……イツキくん」
「あ。……いえ、何でも無いです……」
向かいに座っていた小森が声を掛ける。
40代パート主婦。最初は、仕事に厳しい、怖い印象の女性だったが…慣れて来たのか少し柔らかい笑顔を見せるようになった。
「そう言えばイツキくんって、……ショウジさんの紹介なんだって?」
「……え?」
「庄司光男さん。東京で美容師やってる…、違った?」
「えっ、……ああ、ええっと。はい、そうです、ミツオさんに紹介して貰って……」
キスもしてセックスもして、一緒に仕事もして、新しい仕事も紹介して貰ったと言うのに
イツキは、ミツオの上の名前を、初めて聞いたのかも知れない。
「……小森さんは、ミツオさんと、お知り合いなんですか?」
「前はよく、ココにも顔出してくれたのよ。彼、どう?相変わらずイケメン?…口元に、オシャレ髭、ある?」
「……ええ。……はい」
小森は、ミツオの髭の話をしながら、自分の顔に手をやり笑う。
イツキは、何を思い出したのかは知らないが急に恥ずかしくなって、気付かれないようにと必死に誤魔化すのだった。
2019年03月21日
林田さん
「いや、助かったよイツキくん。
こんな荷物、俺一人じゃどうにもならなかったよ。
あ、その段ボールは明日の分だからそのまま積んでおいて。そっちの紙袋も。
もう仕事、終わりでしょ? 帰り、送るよ。 大丈夫、乗って、乗って」
林田は出荷の商品を車に積み、あちこち回る予定だったが、思った以上に用件が重なり…、
見兼ねた社長がイツキを手伝いに同行させた。
力仕事はカラキシ駄目だったが、それでもいないよりはマシで
林田は感謝し、このまま家まで車で送ると言う。
イツキは一応、断るのだが、どうせ帰り道の途中だからと押し切られる。
さらに何か食べて行こうと、道すがらのレストランに入って行った。
「……実を言えばさ、俺んトコの会社でも得意先でも…女子ばっかりでさ。新しいメンズって貴重なんだよね。
この間の歓迎会はミカちゃんに仕切られちゃったしさ、もうちょっと、話したいなって思ってたんだよ」
歳は二十代半ば。背はイツキより少し高いくらい。意外と筋肉質。
日焼けはスポーツではなく、四六時中外回りをしている為だと笑う。
明るく爽やかな好青年。
……梶原が、社会に出たら、こんな風になるのかな……と、イツキも小さく微笑む。
「知り合い集まって、バーベキューとかするんだよ。先月は花見。上の方行くとキャンプ場もあって…、……する?……キャンプ?」
「いえ…。そういのは全然…。あんまり外で遊んだりとか…、しなくて……」
「へー。インドア派なのかな。…ゲームとか、パソコンとか…」
「いえ……」
言いかけて、言葉を止めて、イツキは少し考える。
自分の話をするときに、何も、話せるコトが無い事に、改めて気付く。
「……俺って、なんにも…、ないなぁ……。……お酒飲んで、テレビ見て、……寝るだけだなぁ……」
溜息まじりにそう呟くと、林田は笑って「……おっさんかよ!」と言い、しばらく間を空けてから、
「……酒!?」
と、ツッコミを入れるのだった。
林田さん・2
「なんだ、飲めるんだ。まあ、そうだよね、俺なんかも学生ん時から、結構、飲んでたもんね。はは、じゃあ、この前の飲み会はつまらなかったでしょ」
「はい。……あっ、いえ、つまんないとかそんなのは無くて……」
「ははは。でも、最近は店も厳しいからねー。イツキくん、カワイイ顔してっから、絶対「年確」されるしねー」
未成年のイツキの飲酒については、林田はまあ、理解を示してくれた。
…もっとも、これまでのイツキの生活を知ったら、そんな悠長な事は言っていられないと思うが。
「じゃあさ、今度、飲みに行こう。知り合いんトコで、内緒で飲めるトコ、知ってるから」
「……ええっ!………はい!」
その時のイツキはおそらく、ここに来て一番の、晴れやかな笑顔を浮かべていたに違いない。
目をぎゅっと閉じ、うんうんと何度もうなずき、嬉しそうに頬をほころばせた。
林田は
ああ、この子は本当に可愛い顔をしているな…と思う。
女の子に感じるような、どこか何か頼りなくて、助けてあげたいと思う感覚が…胸に沸いた。
その後は意外と打ち解け、仕事の愚痴なども話し、楽しい時間を過ごした。
お酒の問題は、イツキにとって重要だった。
アル中、とまでは行かなくとも、今まで毎日飲んでいたものを、急に無くすことは難しい。
ホテルに潜伏していた時は、廊下の隅の自動販売機でこっそり買うことが出来たのだけど、ここではそれも出来ない。
買いだめしていた何本かも、もう、飲み終わってしまった。
2019年03月22日
林田さん・3
週末。
林田と交換したばかりの連絡先に、さっそく誘いのメールが入る。
「……ええっ、林田さんとイツキくん、いつの間にそんなに仲良しになっちゃったんですか? ずるい、ずるい、ミカも行きたいです!」
「駄目。今日は男子会なんだよな、なー?」
仕事あがりに迎えに来た林田にミカが一緒に行きたいとごねるも、それは断られ、
林田はイツキに、さわやかな笑顔を向けた。
「……今度、飲みに行こうって約束しただろ?」
「…はい。……でもこんなにすぐだなんて、…ちょっとビックリしました」
「はは。でもさ、実は、行こうと思ってた店は断られちゃって……。やっぱ最近、厳しくてさ……」
融通の利く知り合いの店は駄目になったと、林田はハンドルを握りながら言う。
イツキも、飲みに行くはずなのに車で来ているのは何故だろうと…思う。
幹線道路を少し走り、交差点を曲がって細い道に入り、さらに住宅街の中に入って行く。
こんな場所に何か店があるのかと、イツキはあたりをキョロキョロする。
やがて、空き地のような駐車場に、車は停まった。
「だから、宅飲み。これなら問題ナシでしょ。…あ、問題はあるか…はは」
着いた先は、林田の自宅だった。
さすがに、それは色々まずいだろうとイツキは思ったが、断る理由を言いあぐねているうちに、押し切られてしまう。
「遠慮することないよ、俺、一人だし。 明日は休みでしょ?…泊まったっていいし。 あー、着替えとか? そんなん、裏返しときゃいいよ、はは」
何も知らない林田はよりによってイツキに、酒とベッドを、提供してしまうのだった。