2019年07月02日
短い話
黒川にしてみれば、無駄にイツキに心配をさせまいと…
いや、ただ、説明をするのが面倒だっただけなのかも知れない。
問題が片付いたはずの光州会に、実は笠原まで加わり
こちらに戻れば、間違いなく一度は…ヤられるだろうと……
話す、口が、重たい。
イツキは
黒川が言葉足らずで、意地悪で、天邪鬼で
嘘でも、ほんの少しの気遣いや優しさをくれる、…事は無いと知ってはいたけど
いい加減、それらを踏まえて、黒川を待つことにも疲れてしまっていた。
つい数日前に「ちゃんと生きる」という決意を固めたところだったが
どうでも良いかも、と、簡単に揺らぎはじめた。
2019年07月03日
金時豆
最近のハーバルは、少し、居心地が悪い。
一番の原因は、半月後に迫った展示会の準備で、作業量が膨れ上がった事だったが
それ以外にも…
林田との仲が進展しないことに、ミカが溜息をついたり、
気付くと、小森が険しい顔でイツキを睨んでいたり…
もっともイツキも、自分自身の今後の身の振り方に悩んでいて、女子二人に構っている余裕は無かった。
仕事場の裏手に、ベンチが置かれた、ちょっとした空き地がある。
ここ数日は天気も良く、昼にはイツキは一人、そこで仕出し弁当を食べていた。
タルタルソースの乗った白身魚のフライを口に入れ、ストロー付きの紙パックのお茶を飲み
傍らでパラパラ、地域の情報誌などを読む。
ハーバルの商品が置かれている道の駅で配られていたもので、記事は、近場のお勧めスポットや、地元の優良企業の紹介などなど。
「………未経験者歓迎…、高卒…、個室寮完備……、ふーん。……俺、働くの、ココじゃなくても……、いいのかも。帰って来るなってマサヤが言うなら、もう、いっそ、ずっと遠くに行っちゃう……、とか……」
そんな事を呟き、軽く、一人で生きている自分の想像をしてみるも…、あまり良いイメージは沸かない。
どこに行ってみても、結局、……黒川の事を考え、……酒で誤魔化した挙句、別の男に抱かれてばかり……、になってしまう気がする。
最後に残していた甘い金時豆を口に入れて、さて、どうしたものかと、イツキは大きく肩で息をする。
丁度その時、仕事場の正面に林田の社用車が停まるのが見えて、イツキはさらに大きなため息をつくのだった。
2019年07月04日
下手糞
「あの馬鹿。こっちがどんな状況かも知らないで、呑気に『帰りたい』だの、どうの…。…光州会と笠原と…揃って鉢合わせてみろ、収集が付かなくなる。
……危ない目に遭えば、それはそれで文句を言うくせに、………クソ」
最近の黒川は愚痴が多い、と、一ノ宮は思っていた。
仕事が一段落し、事務所で二人、少し飲む。
イツキと離れた生活はもちろん、仕事は相変わらず忙しいし、面倒も多い。
おまけに、笠原が
『黒川は、オンナに逃げられたらしい。……下手糞、だからだろう』と
そこかしこで触れ回っていると聞けば、荒れるのも無理はない。
勿論「オンナ」というのはイツキの事で。
笠原は解りやすく黒川を焚き付け、イツキをいぶり出そうとしているのだった。
「……もう二ヵ月になりますか…。イツキくんも、まったく知らない土地で一人で生活も……それは心細いのでしょう。
連絡は、……毎日されているのでしょう?」
それが当然という風な一ノ宮の問いかけに、黒川は少し驚いた様子。
それを見て、一ノ宮は、黒川がロクにイツキに連絡すらしていない事を察する。
この男は。
心配が無い、ハズは無い。けれど、それを表現することが下手糞なのだ。
怒るよりも呆れ、一ノ宮はふうと大きなため息を付く。
「……では、私が電話、してみましょうか?」
そう言って一ノ宮はスーツの内ポケットからケータイと取り出し、冗談とも本気ともつかない笑みを浮かべた。
2019年07月05日
内緒話
頃は20時。
普通であれば仕事を終え、家に戻り、夕食だなんだを済ませ、落ち着く頃。
一ノ宮の電話は何度目かの呼び出しの後、イツキに繋がる。
「………もしもし、イツキくん?」
本当に電話をしたのかと、黒川はギョッとした顔で一ノ宮を見る。
「…………ご無沙汰しています、いえ、どうしているのかなと気になりまして…。大丈夫ですか?……今はお時間………え?……ああ、そうなんですか?………ふぅん……」
黒川は、我関さずと言った風に他所を向き、煙草に火を付ける。
けれど、耳、だけはしっかり、一ノ宮の方を向く。
「………社長ですか?……ええ、横にいますよ。………ははは、内緒にしますよ、ええ。
………イツキくんも気を付けて…、……飲み過ぎちゃ、駄目ですよ?………では、また……」
通話は短く、2、3分で終わってしまった。
イツキはどうやら出先のようで、一ノ宮と話したいのを泣く泣く諦め、電話を切った様子。
一ノ宮はしばらく、手の中のケータイを眺め、その先にいたイツキの事を考える。
相変わらず、トラブルに巻き込まれていなければ良いなと……、……心底、心配する。
「……なんだ?……何か、言っていたのか?」
ただ煙草を吸っていただけの黒川が、横から口を出す。
どこぞで酒を飲んでいるのか「飲み過ぎ」という言葉が引っ掛かる。
一ノ宮は黒川をチラリと見遣り、小さく溜息を付く。
「……さあ。あなたには、内緒、と言われましたので」
そう言って、ケータイをスーツの内ポケットに仕舞い、お先に、と、事務所を出て行ってしまうのだった。
2019年07月06日
枕営業
「……一ノ宮さん?ええ?…どうしたんですか?……あ、でも、ごめんなさい、今、俺……飲み会中で…」
一ノ宮からの電話は突然だった。
着信に気付き、トイレにと席を立つ。
居酒屋の店内はBGMが流れ、時折どこかからか笑い声が聞こえる。
イツキはケータイに耳を押し当て、懐かしい声を聞く。
遡る事、数時間前。ハーバルを訪れた林田が、社長に詫びを入れる。
ハーバルへの発注数を間違え、取引先の商社に迷惑を掛けてしまったのだそうだ。
幸い、そのミスはすぐにカバー出来るものだったが…、その代わりに、飲みの席に付き合えと言われてしまったと。
イツキも一緒に。
相手は、先日の接待の相手、中野井部長だった。
今回こそイツキは誘いを断っても良さそうなものだったが、申し訳ないと頭を下げる林田に、つい、ほだされてしまう。
「……仕事先の人に誘われて…接待みたいな感じで…。……ん、一ノ宮さん、マサヤって今、そこにいるんですか? 俺がそんな事してるなんて内緒にして下さいね」
黒川が知れば、どうせ枕営業だ何だ、また余計な事を言われるに決まっている。
確かに…近いものはあるのだけれど。今日は違うもんと、イツキは心に決めている。
トイレからの戻りの遅いイツキを心配して、林田が顔を出す。
この後、もう一軒、別の店に行くのだと言う。
イツキはケータイに軽く手を当て、『…今、行きますー』と返事をする。
「……ん。ごめんなさい、バタバタしてて。一ノ宮さん。電話、嬉しかったです。ありがとうございます。俺、大丈夫。元気にやってます。……また今度、連絡しますね」
そう言って、電話を切るのだった。
2019年07月08日
反省会
「……何が内緒話だ。……阿呆め」
一ノ宮が帰り、事務所に一人残された黒川は、残りのビールを飲みながら小さく悪態を付く。
心配が無い訳でもないが、毎日連絡などする筈がない。そんな事をするのは余程の暇人だけだろう。
「……どうせ適当に遊んでいるんだろうよ。……飲み過ぎて、トラブルに巻き込まれるのも、自業自得…だ…」
半ば馬鹿にした笑みを浮かべ、そう独りごち…、ふと、先日のイツキの短いメッセージを思い出す。
『俺、そろそろ、帰ろうかな…』と、めずらしく弱気な言葉。
ケータイの文面だけなのに
そう、言う、イツキが目の前にいるようだ。
少し俯き視線を流し、冗談めかして、小さく呟く。
……突然連れ出されて、すでに2ヶ月。気丈に振る舞っていても、帰りたいのは…当然だろう。
その夜は虫の居所が悪かったにしろ、返事が『駄目だ』の一言だったのは、少々、アレだったかも知れない。
「……くそ…」
鼻を鳴らし、ビールを飲み干し
黒川は、もののついでのようにケータイを取り、イツキに電話を掛けてみる。
けれどその電話は、何度呼び出しを鳴らしても、繋がることは無かった。
2019年07月09日
二軒目
ポケットに入れていたケータイがブルブルと震え、何かの着信があった事は解ったが
その時、イツキは電話に出る事は出来なかった。
二軒目は小さなスナックで、イツキは赤いビロードのソファに中野井部長と並んで座り、もう一人の男が歌う昭和の懐メロに、タンバリンを鳴らしている最中だった。
飲み会のメンバーは4人。部長とその同僚。林田とイツキ。
同僚の男も、…そちらの趣味があるようで、…前もって中野井から『カワイイ男の子がいる』と聞いていたらしい。
小さなステージでカラオケを熱唱すると、意気揚々と、イツキの隣りに戻って来た。
「……んー、ソファ、狭いなぁ。はは、詰めて、詰めて」
勿論、解っていて狭い席に座っている。
イツキは、部長と同僚の男に挟まれ、肩を窄めて、困ったように微笑む。
部長はすぐにイツキに新しい水割りのグラスを作り、タンバリンの代わりに持たせる。
カンパイ、とグラスを合わせ、早く酔わせてしまえとばかり酒を勧める。
向かいの席に座っている林田は、その様子をハラハラしながら、見ていた。
前の店でもかなりの飲酒量だった。イツキは大丈夫だと言うが…、もとより、…酒を飲んで良い年齢ではない。
「……あー…中野井部長。……イツキ君、もう…あんま、…飲ませちゃ駄目ですよ…」
「何言ってるんだ、……大丈夫だよなぁ、イツキ君?」
「………えっと。………はい……。…………あっ…」
イツキがグラスに口を付けるのと同時に、隣の男が、イツキの股間に手をやった。
服の上から指先でコリコリと引っ掻く。
この男は中野井とはタイプが違い、自分がされるよりも、して、相手の反応を見るのが好きなのだった。
2019年07月10日
助け船
客もまばらな小さなスナックとは言え、そこは公衆の面前。
こんな場所で、本気で感じる訳には行かない。
男の手の感触を逃すように、イツキは気を逸らし、唇を噛み、駄目ですよ…という風に男を軽く睨む。
その仕草が、男には堪らないのだろう。
まるで、電車内で痴漢でもしているように。
相手が嫌がる素振りを楽しむ。
「………どうしちゃったかなぁ、イツキくん。ほらほら、グラス、零れちゃうよ?」
反対側の中野井部長も、面白そうに声を掛け、身を強張らせるイツキの顔を覗き込む。
イツキは、どこまで許して良いのか、感じて良いのか、本当は嫌がっても良いのか…その境目が解らず、とりあえず小さく、首を左右に振る。
手に、水割りのグラスを持っている為、男達を押し退けることも出来ない。
「……それとも、違うトコが、……零れちゃうかなぁ?」
中野井はさらにイツキに顔を近づけ、耳たぶに、はあはあと息を掛けながらそう言った。
「……あっ、次、俺の歌です。マイク、こっちです。こっち!
林田、歌います!聞いて下さい!
……チャッチャッチャッチャ、チャララララ〜、フッフー!!」
突然、向かいの席の林田が立ち上がり、陽気な酔っ払いの声でそう叫ぶ。
そして、イツキが手に持っていたグラスを奪い、その水割りを一気に飲み干す。
どうにかイツキを助けたいと、林田なりに考えたのだろう。
スナック店内中の視線を集めるように、元気に歌い始めるのだった。
2019年07月11日
大熱唱
それは、それで、楽しい時間だった。
中野井ともう一人の男は、あわよくば…イツキをどうにかしようと…、下心満々だったのだが……、すっかり、林田のカラオケに持って行かれてしまった。
「……夏だぜ、イエー!……夏風、フー!!」
場を盛り上げる歌い方は、学生時代に身に付けたものだろう。
店内にいる客、全員で合いの手を入れられるような曲を、いくつか歌い
途中、甘めのバラードなどを挟み
最後は、やはり、全員で盛り上がれる歌を歌い、どうにか夜を押し切った。
「……まったく。……今日は林田くんオンステージだったなぁ…」
「楽しかったですねー。ね。楽しかったですねー」
スナックも閉店の時間。
気をそがれてしまった部長は嫌味半分にそう言い、イツキは、素直に普通にニコリと笑う。
隣りの男にも極上の笑みを浮かべ、「…ね」と同調を求める。
そんな笑顔を見せられては、…もう、今日は、これで良かったことになってしまう。
「…はは。まあね。まあ、いいか…。……イツキくんさ、今度は、ちょっとゆっくり…、静かなトコに行こうよ。山の方の温泉郷とかさ、泊まりでもさ…」
「…そうですね。6月の展示会が終わったら…、考えます。展示会、イロイロ、問題出るかも…。助けて下さいね」
「あはは、任せなさい。…ははは」
そんな話をして、スナックの外で、この会はお開きになった。
呼んでもらったタクシーに中野井と男は乗り込み、イツキは手を振って、二人の男を見送った。
残るのは
すっかり酒に酔い、声を枯らし、死んだようにブロック塀に寄りかかる林田だった。
2019年07月12日
騎士道
「………林田さん、………大丈夫ですか…」
「…………あ、ああ。……うん」
息も絶え絶え、ブロック塀に寄りかかる林田に、イツキは声を掛ける。
林田が、無理にはしゃぎ場を盛り上げ、自分を守ってくれたことは、イツキにも解る。
道路の少し先に自動販売機があって、そこで水のペットボトルを買う。
林田に手渡すと、林田はそれを半分ほど飲み、……ほどなく、全部吐き出し、それで少し楽になった様だった。
「……ああ、ごめんごめん。……でも、……平気…。終わって、良かった…」
「林田さん…」
「さてと。俺らも帰ろうか。…タクシー、捕まえられるかな…」
口元を拭いながら、林田が笑い、道路の端に出て手を挙げる。
こんな男気を見せられては、少し、胸が…苦しくなる。
ワイシャツの背中。意外としっかりした肩のライン。捲った袖口。
つい、触れたくなってしまうのは、……イツキもまだ酔いが残っているからだろうか。
もう、誰ともシない。と、誓った決意が
簡単に崩れそうで、困る。
捕まえたタクシーに、二人、乗り込む。
行き先は近場のラブホテル。……ではなく、イツキのアパートだった。
まだお互い、なんとなく理性は、残っているようだ。
「……大丈夫。……家まで、送る。
……俺のヘマのせいで、こんな接待に付き合わせて、これ以上…変なことになったら、俺、申し訳無さ過ぎだよ……」
「………ん」
林田は一応の騎士道は見せるも
それはイツキの決意と同じで、非常に脆いものだった。
2019年07月14日
悪循環
タクシーがイツキのアパートに着いたのは、すでに深夜1時。
先にイツキが降り、その後、林田の家に行くつもり……、なのだが
車が停車しても、イツキは車から降りられない。
それは、林田が、イツキの手を握っていたためだった。
「………林田さん…、……おれ、…降りる…?」
「…………ん」
二人とも、酔いの残った頭。身の内の欲望を素直に晒してしまって良いのかどうか、迷う。
ついうっかりセックスをして、その都度「無かった事」にしているのに、またそれを繰り返すのか。
……無かった事に出来るのなら、もう一度くらい、繰り返しても良いのではないか……。
「……お客さん、どうするんですか?……降りるんですか?」
「……あっ、はいはい。…降ります…」
答えを出す前に、タクシーの運転手に急かされ、林田も一緒に車を降りてしまった。
アパート前の真っ暗な夜道に、二人、手を繋いだまま佇む。
イツキは、好き嫌いはともかく、今日の林田は格好良かったな、と思っていた。
そして何より、
眠くて疲れていたので、早く、部屋に入りたかった。
「……林田さ…ん…」
「イツキくん、俺……」
イツキの言葉を遮って、林田が何かを言おうとする。
繋いでいた手にぎゅっと力を入れ、一度、目を合わせ……、恥ずかしいといった風にすぐに目を逸らせる。
それでも意を決した風にそのままイツキの手を引いて、イツキの部屋に行こうとする。
丁度その時、二人のすぐ真後ろに、もう一台、別のタクシーが滑り込んで来た。
2019年07月15日
来訪者
人通りのない道、しかも真夜中。
すぐ真後ろにタクシーが停まり、イツキと林田は否応なくそちらを見る。
車内が明るくなり、ドアが開き、男が一人降りて来る。
それは、イツキが良く知る男だった。
「…………マサヤ…」
突然現れた黒川にイツキは驚き、名前を呼んだきり、口をあんぐり開けたまま固まる。
もっとも驚いたのは黒川も同じで…、……まさか車から降りてすぐに、見知らぬ男と手を繋ぐイツキに会うとは思わなかった。
林田に至っては何が起きているのかサッパリ解らず、イツキとこの眼光鋭い男は知り合いなのかと…互いを見遣るばかりだった。
「……そう言う事か…」
「……え…っ、……あっっ」
イツキが、自分がまだ林田と手を繋いだままだった事に気が付き、慌てて手を離す…
……よりも早く、
黒川の強烈な一発で、林田の身体が後ろに吹き飛んだ。
「……信じらんない!マサヤ、……急に出て来て、急に殴るなんて…!」
「どう考えてもお前が悪いだろう!」
「何もしてないじゃん!…林田さんは俺を助けてくれて、家まで送ってくれただけだよ!」
真夜中の道端で痴話喧嘩が始まる。
殴られた林田は尻もちをつき、そのまま呆然と、二人のやりとりを眺めていた。
2019年07月16日
口喧嘩
黒川は以前にも何度か、イツキが他の男と一緒にいる現場に出くわした事がある。
それは本当に、本気だった時もあるし、ただの勘違いや偶然だった時もある。
ただ、そんな時はいつも、黒川はイツキに手を挙げていた。
今回のように、まず相手に手を出すことは稀だった。
それだけ、頭に血が上っていたのか、冷静でいられなかったのか。
「……お前は目を離すとすぐに男を咥え込む…」
「じゃあ、目、離さなきゃいいじゃん!勝手に放っておいて、勝手なこと、言うなよ!
マサヤが……、俺のこと、放っておくから悪いんじゃんか!!」
怒鳴る黒川に、イツキは食い下がる。
言いたい事は、山ほどあるのだろう。
「……それはお前の為だろう!……大人しく、待っていられないのかよ!」
「待ってるよ!ずっと、ちゃんと、待ってたよ!……一人で暮らして、仕事して…ちゃんと、頑張ってるじゃん!……ちょっとぐらい何かあったって、いいじゃん!」
イツキがこれだけ反論するのも、まあ、稀だった。
それだけ腹に据えかねていたし、それを言うだけの強さも、身に付けたという事だろう。
「………あのー……」
殴られたまましゃがみ込んでいた林田が口を挟む。
「………とりあえず…、もうちょっと…声、押さえた方が……。ご近所さん、……出て来ちゃうかも………」
2019年07月18日
残念賞
一呼吸おいて、やっと皆、少し冷静になる。
林田の言う通り、このまま真夜中の路上で痴話喧嘩を続けていては、通報されてもおかしくはないレベル。
実際、どこかの家の明かりが灯り、カーテンが揺れ、こちらを伺う気配がする。
黒川はふんと鼻息を鳴らし、それ以上は何も言わずに、踵を返しイツキの部屋へと向かう。
イツキも黒川の後を追う、……その前に、林田に詫びを入れる。
「……ごめんなさい、林田さん。本当にごめんなさい…、今日は……」
「…いや、いいよ。…俺は、平気だけど…、………平気?」
「……ん。……大丈夫です」
「…………誰、あれ?」
林田はようやく立ち上がり、殴られた頬などに手をやり、いぶかしげに黒川を見遣る。
黒川はアパートの階段を上りながら、イツキに、早く来いと急かす。
「………あれ、…俺の…、……アレです。……一緒にいる人って言うか…」
どう説明して良いか口籠るイツキ。
どこか気恥ずかしそうな様子に、林田はあれがイツキの「彼氏」なのだと気付く。
「……えっ、……じゃあ、ミツオさんは……」
「…ミツオさん?……え?……ミツオさんとは何の関係も無いですよ…」
「………えっ…」
「…イツキ!」
黒川は部屋の扉の前で、開かないドアノブをカチャカチャとやる。
イツキは、詳しい話はまた今度と、林田に頭を下げ、黒川の元へ向かう。
林田は何が何やらサッパリ解らず…、大混乱の頭のまま
車一台通らない真っ暗闇の道端に、ぽつんと立ち尽くすのだった。
2019年07月20日
深夜2時
「……林田さんはハーバルの、俺が働いてるトコの…、取引先みたいなトコの人で…
今日は…その辺の人たちとの飲みの席で…、……そんな感じ。もう電車も無いし、タクシーで送ってもらったんだ……」
部屋に入り、イツキは台所で茶など入れながら、ざっとそんな説明をする。
黒川は、新しいソファに横柄に座り、ふんと鼻息を鳴らす。
「……飲みの席か。…未成年、云々はどうした」
「…マサヤが、それ、言う?……俺のこと、未成年だなんて、扱ったことないくせに」
「………家まで送りついでに、……ヤルつもりだったんだろう?」
「……さあね」
ダン、とテーブルにグラスを置き、イツキもその脇に座る。
黙ってしまえば、静かな部屋。古い冷蔵庫のモーター音が、響く。
熱くなり過ぎたと、黒川にも自覚がある。
一ノ宮の挑発に乗り、遠距離を嫌がるタクシーに倍額払うと万札を投げつけ、こんな所まで来ただけでも十分だと言うのに…
……うっかり、一般人に手まで上げてしまった。
イツキに関することに冷静さを欠く事が、多々あることは、解っている。
その理由は、深く考えずとも、………おそらく、知っている。
ただそれを口に出して説明してやるには、まだ、時間が要る。
「………くそ」
悪態を一つ付く。
そんな不器用な黒川の腕の中に、イツキが、自分から滑り込む。