2019年09月01日
黒川ロス
月曜日の朝、イツキはアラームの音できちんと目覚め
顔を洗い、身支度をし、菓子パンを軽くつまんで、仕事へと向かう。
社長やミカや小森に普通に挨拶をし、机に向かい、自分の仕事に取り掛かる。
今日はネット販売で扱う商品の在庫管理。台帳と照らし合わせ、数量や使用期限などをチェックし、不足分を洗い出す。
「………ラベンダーが来月末まで…、あれ、ミカさん…、これって先週、道の駅に持って行ったのと同じロットじゃないですか…?」
「あ、そうかも。……期限短いね、入れ替えないとだね…」
「イツキくん。この間のトライアルセットに入れた石鹸は?」
「あれは次の箱から開けた分なので大丈夫です。全部、一年先まで持ちます」
驚くべき早さと集中力で作業を進め、ミカも、小森も目を丸くする。
お陰で今日の仕事は予定より早く終わり、帰りには皆で食事にでも行こうという話になった。
イツキは最初、断っていたのだが、半分押し切られる形で参加する。
部屋に帰って一人になっても、きっと、黒川を思い出して…寂しくなってしまう。
仕事に集中して頑張っていたのも、それ以外のことを何も考えないようにするためだった。
黒川と過ごした三日間は、非常に、密度が濃い時間だった。
八割がたは身体を重ねていたような気がする。
最後の、ラブホテルでの時間は特に……、蜜で
思い出すだけでも身体が疼きそうだし、恥ずかしさにどうにかなりそうだし
……それが、また暫く遠ざかってしまう事が……、酷く、辛かった。
『イツキ』
耳たぶを噛みながら、そう名前を呼ぶ黒川の声が、まだ聞こえる気がした。
2019年09月02日
虫刺され
「あれー?イツキくん、なんだかこっちの耳、赤くない?」
「……えっ、……あ、…虫に刺されたのかも…」
社長と小森、ミカとイツキの4人で国道沿いのとんかつ屋に行く。
イツキの右側に座ったミカが、イツキの右耳を見て、そう言う。
イツキは耳に手を当て、痒そうに触って見せるも、それは、虫刺されなどではなく。
もっと悪い虫に、噛まれたものだった。
黒川は執拗にイツキの耳たぶを噛み、耳の穴に舌を捻じ込む。
指は、すでにイツキの中に埋められていて、もぞもぞと肉壁を擦る。
達してしまうほどの強い刺激ではない、その分、ずっとずっと…溢れ出しそうな感覚が続く。
イツキは身体をくねらせ、『…ああ…』とか『…いやぁ…』とか、艶声を洩らす。
『………好きだぜ、お前の声。……それだけで、……ゾクゾクする』
黒川はわざとイツキに声を上げさせているようだった。
イツキも、アパートの部屋とは違い、ラブホテルでなら気にせず声が出せる。
酔いも手伝ってか、いつもより上擦った声。それが一層、黒川を喜ばせた。
「……イツキくんってさ、週末、デートだったんでしょ? 何、何? どっかお出掛けしたの?……で、虫に刺されたの?」
隣りのミカが小声で聞いて来て、イツキは危うく味噌汁を吹き出しそうになった。
2019年09月04日
イツキロス
「……この店は先週までにカタを付けろと言っただろう、まだ120万、足りないぞ。大久保のピンサロも同じだ。ホステスのリストはどうした?
…内装屋は連絡したのか?…中央通り店の件だ、ソファが安物過ぎる、入れ替えさせろ。
書類が揃っていないだ?ふざけるな、昼寝でもしていたのか、ボンクラが……。
………くそ、茶が熱いぞ、佐野!」
西崎の事務所で仕事のチェックをする黒川を、西崎も佐野も恐々と遠巻きに眺める。
今日は特別、虫の居所が悪いらしい。いつもより一層細かい指示が飛ぶ。
「………どうしたんスかね、……社長…」
佐野は新しいお茶を淹れながら、小声で、横に居た一ノ宮に尋ねる。
一ノ宮は「……さあ」と言って、苦笑いを浮かべる。
まさか、週末に全ての仕事を放ってイツキに会いに行き、戻ってみれば喪失感で苛立っているなど…、本人の前で言えはしないだろう。
手を伸ばし、イツキの肌に触れる。
男のくせに極めの細かい滑らかな肌が、手の平に馴染む。
眠りかけていたイツキが顔を上げ、視線を寄越す。
これ以上近づけないほど、近くにいるというのに
さらに身体を摺り寄せ、互いが目の前にいることを確認する。
そんな、ごくありふれた時間が実は久しく、そしてまた……遠くなる。
無くなると途端に欲しくなる。
必要なものなのだと気付かされるのが腹立たしい。
「……西崎、契約印の位置が違う!こっちは控えだろう!」
「はいはいっ、スミマセン」
捲し立てる黒川を見ながら一ノ宮は、……これならば今日の仕事は早く片付きそうだ…と、小さく笑った。
2019年09月06日
景虎大吟醸
「お疲れ様です、社長。いや、思ったより早く片付きましたね。中央通り店のソファも、あの、黒の革張りが入って良かったです。やはり見栄えが違う」
「輸入モノだからな、残りの納入時期だけ確認しておけ」
「はい、チェックリストに入れてあります。来月のリニューアルには間に合うでしょう…」
西崎の事務所での仕事も一通り終わり、黒川と一ノ宮は自分たちのオフィスに戻る。
週末、仕事をサボったツケをどうにか回収し、黒川はふんと、鼻息を鳴らす。
上着を脱ぎ、ソファにどかりと座り、足をテーブルに投げ出す。
「さて、……少し、飲みますか? 景虎の大吟醸が残っていますよ?」
黒川の返事を待たず一ノ宮はグラスを持ち、テーブルの、黒川の足が載っていない場所に置く。
向かいのソファに座り、グラスに酒を注ぐ。乾杯でもするように少し傾けると、先に口を付ける。
「…なんだよ。……楽しそうだな、一ノ宮」
そう言って黒川は、日本酒を飲む。一ノ宮は静かな笑みを浮かべる。
「……まさか、本当にイツキくんの元に行くとは、思いませんでしたよ。しかも、帰って来ないなんて……」
「…………イツキが、………帰るなと駄々をこねて…」
「ふふ。……そうですか…」
一ノ宮は、ハイハイ解っています、という風に何度か頷く。黒川のグラスが一瞬で空になってしまったので、そこにまた酒を注ぐ。
『………マサヤ、帰っちゃ、……や』
今にも泣き出しそうな目でそう言ったイツキを、黒川は思い出していた。
世界の正解
『………マサヤ、帰っちゃ、……や』
言われたのは最初の夜だったと思う。
連絡もなく突然、訪れた黒川に、イツキは驚き、喜び、狭いアパートの部屋で逢瀬を遂げる。
それでもいつものように慌ただしく、黒川が帰ってしまうと思ったのだろうか
コトが終わり、余韻の残る重たい身体を摺り寄せ、イツキはそう懇願した。
『………生憎、そう、ヒマでは無いからな…』
『………もうちょっと、……いてよ。………一緒に、……いたい』
イツキの言葉に、ふんと鼻息だけで答え、後は抱き締めて誤魔化した。
そうして結局3日間も、イツキの元にいることになった。
手の平も素肌も唇の上も、馴染み過ぎていて、離れがたい。
まるで、こうしているのが世界の正解だと、誰かに耳元で囁かれている様。
「……ちゃんと予定を決めて、定期的に通われてはいかがですか?」
「通う? 馬鹿か! タクシーで3時間もかかるんだぞ? それとも新幹線の定期でも買うか? どんな遠距離通勤だよ」
「…しかし、ふいに我慢が効かず、会いに行きたくなるのも…困りものでしょう?」
一ノ宮の言葉はどこからどこまでが本気なのか…、むっとした顔で黒川が睨むと、一ノ宮は、ふふふ、と小さく笑う。
「……まあ、それよりも…、早く、根本的な問題を片付けた方が良いでしょう」
「……笠原、な。……月末に、何か、約束があったか……」
「親交を深めたいと…、『フェリーチェ』にお誘いがありましたね……」
「…………そうか」
日本酒のグラスを空けて、黒川は大きく溜息を付いた。
2019年09月09日
一人の部屋
黒川は一人、マンションの部屋に帰る。
イツキがいない生活もすでに2ヶ月。……もう、慣れた。
リビングのソファで転寝をしながら、帰りを待たれる事もないし。
冷蔵庫にラップの掛けられた、総菜の皿が入っていることもない。
掃除や洗濯などは、一人でどうとでも出来る。
乾燥機に、縮んだ綿のシャツを見付けて、怒る事もない。
ベッドのシーツが、朝、出掛けた時のままシワくちゃなのは、まあ仕方がないだろう。
布団の中がひんやり冷たく、温まる気配もないのも、仕方が無い。
風呂上がりのイツキがそのままベッドに入り、枕を濡らすこともない。
足元に、夕べ脱ぎ捨てた下着がそのまま残っていて、苦笑することもない。
真夜中に急に抱き付かれて、眠りを妨げられることもない。
寝不足の朝を迎えることも、どちらがコーヒーを淹れるのか揉めることも、ない。
『マサヤ、もう寝た?
なんか、少し一緒にいたら
逆にまた、…寂しくなっちゃったね。
なんてね。
おやすみ』
届いていたイツキからのメールに黒川は
『そうだな、おやすみ』と、返信をした。
2019年09月10日
ガールズトーク
「……えっ、……嘘?」
「嘘じゃないです。どうしてそんな話に…、……あ、林田さんですね?」
「……ん、まあ…。……え、でも……」
仕事中。イツキとミカはなるべく小さな声で話す。その様子を斜向かいの小森がチラリと睨む。
「……林田さんにも話ましたよ?……違うって」
「そうなんだ。そうか……、ん、ちょっと変だなーって思ったんだよ、話が…」
「ミカさん、この箱からラベルが変わります、こっちの…青いのです」
「あー、ハイハイ」
先日、一緒に食事をした時、酒が入っていたこともあって、イツキとミカはそんな話をしたらしいのだ。
イツキはなるべく…自分の話をしたくはないのだけど…、ついポロリと零してしまい、ミカは瞬時に喰い付いて来る。
今までのイロイロな情報を掻き集め、イツキの周辺を探る。
そしてようやく、一つ、大切な事を間違えていたことに気付いた。
「……そっかー。ミツオさんじゃないのか、イツキくんのカレってー」
「…………ミカさん。………声、大きいです…」
イツキはミカを窘めるように、唇に指を一本あて、しっとして見せる。
そして、話が聞こえていただろうかと、そっと小森の様子を伺う。
話は、小森にも聞こえていた。
小森は目を丸くし驚いた顔をしていたが、イツキと目が合うと、何故かニコリと優しく微笑むのだった。
ガールじゃないけど…w
2019年09月12日
数日間
それから数日は何事もなく、普通に過ぎて行った。
仕事は、来週に迫ったイベントの準備で忙しく、イツキもミカも無駄なお喋りもせず、真面目に取り組んでいた。
小森は仕事の合間に手作りのクッキーなどを振る舞う。急に、雰囲気が穏やかになった理由は……まあ、どうでも良く。
林田も、半ばハーバルの社員のように、ハーバルの仕事を手伝う。
イツキを見るとまだ気持ちの整理が付かず、胸が痛くなったが、その答えを出すのは取りあえず後にしておく。
時間を空けることで、良く解らない感情が落ち着いて行くことを、オトナの林田は知っていた。
後々、その方法は、「イツキ」相手にはあまり通用しない事を、身をもって知るのだけど。
黒川も相変わらず、忙しく仕事をしていた。
某所の工場跡地を買収し、開発業者に売り付けようと、西崎を連れ立って少々荒い交渉を繰り返していた。
この案件が片付いたら、次は笠原の方を片付けるか…と、頭の片隅で思う。
思いながらも、その手間を掛ける事に、本当に意味があるのか…とも、思う。
その疑問に、一ノ宮は気付いていたが、何も言わない。
「イツキ」の事で泥臭く動く黒川を、半分は、やっと人並みの感情を持てたのかと嬉しく思い、半分は……疎ましく思っていた。
この世界にいる以上、もっとシビアにダークに生きて然るべきなのだ。
それを、気まぐれで手に入れた一人の少年のために、狂わせるのは如何なものか。
まあ勿論、そんな葛藤は、黒川本人が一番解っているだろう。
夜、眠る前にイツキは黒川にメールを入れる。
返事が来るのは、大抵、真夜中過ぎ。
イツキは布団の中でケータイを開き、短い、黒川からのメールを眺めた。
火種
「黒川、イツキに逃げられたって本当か?」
吉村が、開口一番、そう尋ねる。
たまたま仕事で顔を合わせ、久しぶりに飲みに連れ立った近くのBAR。
吉村は友人という程ではないが、仕事仲間の内ではまあ気心が知れた間柄。
何度かイツキを抱かせたこともあるし、イツキにとっても吉村は好きな「客」の一人だった。
大真面目に、イツキを譲れと、言い出した事もある。
「……どこでそんな話を聞いた?」
「いや、あちこちで聞くぜ? お前がイツキに入れ込み過ぎて…、ほら、「仕事」にも出さなくなっただろ? 独占して溺愛して束縛して、挙句、逃げられたって……」
「……は…は」
当たらずとも遠からず。反論はあるが、まあ、すべてが間違ってもいない。
黒川は適当に笑って、カウンター席に座り、ウイスキーのロックを注文する。
「……まあ、そんなトコロだ。……あいつがいないと、余計なトラブルも減って、いい…」
「なんだよ。手放すなら俺にくれと言っただろう?……勿体ない」
「もれなく揉め事も付いてくるがな。……吉村、……池袋の嶋本組と、光州会が組んだ話、聞いたか?」
もののついでのように、黒川が吉村に聞く。
吉村は、それが本題なのかと、薄く察する。
「……嶋本組本体じゃなくて、そこの若頭補佐が動いたって聞いたぜ?……まあ、光州会も代が変わってバタついていたしな…。……それが火種か?」
2019年09月14日
蒔いた種
「……若頭補佐が元気が良くてな。…よく吠えて来る。とにかく、何でも…騒ぎを起こして…、その隙にのし上がろうという手合いかな、……ふん」
手に持ったロックグラスを揺らしながら、黒川はそう言う。
氷がからんと音を立て、崩れる。
割合、親しい間柄の吉村とは言え、同業者だ。すべての事情を話す事は出来ない。
「イツキが巻き込まれたのか?…どうせ、貸す、貸さない話だろう。お前、結構、雑に扱ってたからな、あの子のこと…」
「……そうでもないだろう?」
「だから逃げられたんだろう?……それとも、逃がしたのか?」
事の真相を探ろうと、吉村がぐっと黒川の顔を覗き込む。
その視線を黒川は軽くかわし、ふんと鼻先で笑い、グラスを口に付ける。
吉村も酒を飲み、黒川の答えを待つのだが、肯定も否定も、返事は無い。
「………なら、見付けたモン、勝ち…、かな。なあ、黒川?」
「……馬鹿を言え、イツキは、俺の、だ」
「なら、首に縄でも付けて手元に置いておけよ。……どうなっても、知らないぜ?」
その言葉に一瞬、黒川が当惑の色を見せたのを、吉村は見逃しはしなかった。
黒川はイツキを手放した訳ではない。未だに黒川の所有物で、…どうにかなっては、困るものなのだ。
「……揉め事を起こすのは、イツキじゃなくて……、黒川、お前なんじゃないのか?
元はと言えば、お前が蒔いた種なんだろ?」
「……ふん」
黒川の返事は不愛想な鼻息のみ。空のグラスをテーブルに置いた。
2019年09月15日
柿の種
黒川はバーを出て、散歩がてら夜の歓楽街を歩く。
飲み直しても良いし、事務所で仕事の続きをしてもいい。ただ、一人の部屋に帰る気はしなかった。
ポケットのケータイが鳴る。
相手が一ノ宮なら、すぐに出ようと思ったが、生憎、違った。
黒川はディスプレイに浮かぶ「イツキ」の文字だけ、確認して
そのケータイを、ポケットに戻した。
一人、バーに残っていた吉村は、ポリポリと乾き物のツマミを食べていた。
ケータイが着信を告げる。
周りに他の客もいないため、吉村はそれに出て、不機嫌そうに相槌を打つ。
「………ああ。………いや。
……どうだろうな…。近くにいない事は確かだが、どこにいるのかまでは解らんよ。
……ともあれ、こんな連絡もこれっきりだぜ?……俺は黒川と喧嘩する気は無いんでな。
……笠原さん。あんたも、これ以上、いらん波風は立てるなよな………」
そう話して、通話を切って、ふうと溜息をつく。
気の乗らない取引。リークする程の情報では無いが、それでも後味は悪い。
「……まあ、何が起きても…、自業自得ってヤツか…」
最後にそう呟いて、吉村は残りのピーナッツを口に放り、バーを出て行くのだった。
2019年09月18日
良い事と、悪い事
その日、イツキはハーバルの商品を置いている「道の駅」で、諸々作業をしていた。
商品は、天然素材を扱っている為、消費期限があるものも多く、その日付を確認し、新しいものと入れ替えたり並べ替えたり。
委託で、近所の農家のオバチャンが作ったハーブやお茶などもあり、その在庫を調べ次回の注文数を決めたり。
そのオバチャンの一人が売り場に来ていて、イツキを褒めた。
そのハーブはイツキの発案で、パッケージを変え、売り場の位置を変えたのだが
お陰で、売り上げが伸びたのだと言う。
他にも、商品の詰め方が丁寧だとか、在庫のロスが少なくなって助かったとか。
とにかく、とても喜んでいて、イツキに礼を言い頭を下げる。
イツキは、自分の仕事にそんな評価を貰った事が無いので、ひたすら照れ、自分も「ありがとうございます」と頭を下げるばかりだった。
「ふふふ」と笑いながら、イツキは仕事を終える。
帰り道。何か特別に美味しいものでも買おうかと、ショッピングモールに寄る。
……もしかしたらこの週末も、……黒川が来るかも知れない。
黒川が好きそうな食べ物を考え、黒川のために着替えや、身の回りの物を揃えた方が良いのかと、売り場を回る。
部屋着に丁度良いシャツを見付け、買おうかどうしようか散々悩み
「……いや、俺がこんな事、することないじゃん…」と自分で言って、自分で笑う。
けれど結局、買う。しかも、色違いで二着。
イツキは自分でも呆れ、それでも楽し気に売り場を後にする。
最後に、トイレに立ち寄る。
勿論、誰もいない事を確認してからだが……終わってから手を洗っていると、新たに入って来た男がイツキにピタリと身体を寄せる。
その男は、イツキが買い物をする様子をずっと眺めていたようで、
「お兄ちゃん、可愛いね」
と言って後ろから抱き付き、股間を摺り寄せ堅くなったものを当て、イツキの耳たぶをべろりと舐める。
そして、驚くイツキが声を上げる間もなく、トイレから逃げて行った。
小さな影
黒川との電話が繋がったのは、午前二時。
黒川にすれば仕事の合間の普通の時間なのかも知れないが、イツキには、夕方から何度も何度も連絡を入れ、折り返しを待つのも諦め、布団に入った時間だった。
『何だ?』
「……何って…程でもないけど…。……マサヤ、明日の土曜日はこっちに来るのかなって…」
『そう毎週、行っていられるかよ。…それだけか?』
「……え、いや。えーと……」
最初に電話を入れた時には、仕事で褒められた話や、ショッピングモールのトイレで痴漢に遭った話や、イロイロ…言いたい事があったのだけど
一眠りしたら、どうでも良くなってしまった。
目を閉じて、ケータイの向こうの黒川の、息遣いを探る。
「……じゃあさ、俺…、来週の土曜日は…そっちに行くんだけど。……ウチ、寄っても良いかな?」
『…銀座で石鹸を売るとか言っていたな』
「…石鹸…、まあ、そうだけど…。デパートの売り場の手伝いで、でも途中、時間が空きそうで……」
『いや。来るなよ。銀座でも近いぐらいだ。目立つ動きはするな。売り場の奥に引っ込んでいろ』
つっけんどんにそう言って、黒川は他に用事があるのか、電話を切ってしまった。
『じゃあな、また後で連絡する』その言葉を信じて待って、連絡が来たためしはない。
黒川は、先日ふいにここに来た時は、優しかった。
それはもう、遠い昔のことのように思う。
足りない言葉も辛辣な態度も、諸々事情や深い考えがあってのこと…と、慮ってやるのだけど、それでも誤魔化せるものでもなくて。
イツキの心に小さな影を作る。それはイツキ自身、気付かない内に。
2019年09月20日
坩堝
別に恋人同士ではない。
好きだの、愛しているだの、言葉を交わし合ったこともない。
まあ、身体の相性はよく、行為で得られる快感はそれ以外とは比べ物にならないのだが
それだけだ。ただ一瞬、その時だけの至福。
その一瞬のために、払う代償が大きすぎやしないかと、ふと、イツキと黒川は思う。
近くにいる時は、肌がただれる程、求めあってしまう。
近くにいない時は、その体温が恋しくて、四六時中その事を考えてしまう。
極めて、不経済。面倒臭い。
一周回って、そんな思いにさせる相手が、疎ましくすら感じる。
もどかしさに、ケータイを握りしめ、溜息を付く。
二人、同じような夜を過ごしていることを、二人は、知らない。
フライング
その店に、その男は突然現れ、店内はザワつく。
男は知った事かとカウンター席に座り、酒を注文する。
連絡を受け、店のオーナーが奥から出て来る。
男の隣りの席に座り、自分にも、男と同じ酒を用意させる。
「……黒川さん。……フライング過ぎやしませんかね?」
「………ただの客だ。……気にするなよ」
「はは。そうはいかんでしょう…」
男は、黒川。オーナーは笠原。
「フェリーチェ」は笠原のホームで賭博などをやらせる場所だが、表向きは、上品なバーを装っている。
「…ちゃんとした話し合いの場を設けたいと…、そちらの一ノ宮さんと連絡を取っている最中ですよ?」
「それとは別だ。ただの客だと言っただろう」
黒川は笠原を見もせず、グラスを傾けながら静かにそう言う。
……そう言う事ならと、笠原も腹をくくる。遅かれ早かれ、この男とは話をしなければいけないのだ。
「……本当は、イツキくんも同席して欲しいトコロですけどね」
「…どいつもこいつも…、あれに固執し過ぎだ。いい加減、放っておけよ」
『固執しているのはアンタだろう』と、笠原は言いかけて言葉を飲み込む。
代りに、はは、と小さく笑う。
喧嘩をするには、まだ、早い時間。