2019年10月01日
一ノ宮
「笠原氏と会って来たんですか?……光州の高見沢氏を交えての懇談を、…予定を詰めている所ですよ?…何を先走って…、何を話して来たんですか!」
「………声が大きいぞ、一ノ宮」
「雅也。……池袋のA倉庫、買いましたね?……花代ですか?」
別に説教を聞きたくて、一ノ宮を焼き鳥屋に呼び出した訳ではない。
それでも一ノ宮は最初から、黒川を下の名前で呼ぶ。
そう呼ぶときは親身にざっくばらんに、…感情的に、黒川に本音を話す時だった。
「…何もくれてやると言った訳じゃない。相応の見返りは要求する」
「…イツキくんの身の安全ですか?」
「…それもある。…諸々だ。…もう、俺に関わるなと…、……手切れ金だ」
黒川はふんと鼻息を鳴らし、コップの冷や酒をぐいと煽る。
一ノ宮も同じ酒を飲む。この二人はザルで、底なし。
酩酊した姿を見る事は無いが、若干、饒舌になるようだった。
「……あなたが、イツキくんに対して熱くなるのは…、……まあ、悪くはないかと思いますが……」
「熱くなっている訳じゃない。周りにたかるハエがウルサイだけだ」
「はいはい。……それを放っておけなくなったという事でしょう。自分事のように」
多少、癇に障る物言い。
古くからの友人でビジネスパートナーでもある黒川が、若い恋人に入れ込み暴走する様は、未だに、慣れるものでは無い。
他者に対し深い情愛を持つことは悪くはないと思うのだけれど、どうにも、加減がオカシイのだ。
「……何だよ、一ノ宮。……ヤキモチか?」
憮然とした様子の一ノ宮に、黒川が軽口を叩くと
一ノ宮は、冗談でも趣味が悪すぎるとさらに顔を顰め、冷ややかに黒川を睨むのだった。
2019年10月02日
一応、冗談
「……そう言えばイツキくん、仕事でこちらに来ると言っていませんでしたか?」
「ああ。次の土、日曜日。銀座で石鹸を売るんだとよ」
「……石鹸…」
黒川の説明に一ノ宮は苦笑いを浮かべる。……スマホを開き、「ハーバル」の広報などから、イベントの詳細を調べる。
「……ああ、これですね…、……『オーガニック・フェスタ』……百貨店の6階の特設会場…、…化粧品、…衣料品…、ああ、ワインもある…、いいですね……」
「こんなタイミングだからな…、本当は止めさせたいんだが…。売り場の奥で荷物を運ぶだけだから大丈夫だとか、ナントカ…」
「…まあ、女性しか行かないような店舗ですからね…。あちこち、出歩かなければ問題ないとは思いますが……」
焼き鳥盛り合わせを平らげ、皿をカウンターの上に置く。
シイタケと獅子唐を2本づつ頼み、空のコップには冷や酒を注ぐ。
「……雅也、会いに行っては駄目ですよ?」
「解ってる。都内で接触はナシだ。……笠原が何か仕掛けそうだからな…、……まったく」
「こんな女子力高めのイベントに出向いては、目立ち過ぎます。むしろ変質者です」
確かに、このイベント会場に、眼光鋭い黒川の姿は異質過ぎるだろう。
一応、冗談のように一ノ宮はそう言って、黒川をチラリと見て、笑った。
今日は月曜日。週末まではあと5日。
2019年10月04日
完全装備
遡って日曜日。イツキはミカと買い物に出かけていた。
電車で少し行った先、ここいらでは一番の華やかさ。以前、林田と接待で訪れた駅前。
「ああ、もう、服、決まんない。イツキくん決めた?長袖?半袖?」
一週間後に迫ったイベントの為に、あれこれ準備が必要なのだという。
「スカートはさー、この前買ったミモレ丈のにしようと思ったんだけど…動きにくいかなぁ…」
「動きにくいと思いますよ。上も、お揃いの半纏着るって言ってたから…何でも…。…Tシャツで良いんじゃないですか?」
「イツキくん!銀座よ銀座、ザギンよ!?何があるか解らないのよ?完全装備で行かなきゃダメでしょ!」
男のイツキにはよく解らないのだけど、女子にとっては、都会と言われる場所に赴く時の準備は大変なものらしい。
午前中の内に数軒店を回り、すでに両手いっぱいの紙袋を持ち、少し休憩と、食事が出来る店に入る。
イツキは冷たいお蕎麦のついた天丼。ミカは、カツ重。
「……あたしね、土曜日、向こうでホテル取ろうかなって思ってるの。イツキくん、一緒に泊まる?……あっ、もちろん、違う部屋よ?」
「……でも、土日とも社長の奥さんが車、出してくれるって言ってましたよ?」
「朝、5時出発よ?2日間も!だったら、泊まっちゃった方が…夜も遊べるじゃない」
元気よくカツ重をかきこみながら、ミカはそう言う。……確かに、イツキもそれは考えた。
けれど
近くに、…と言う程近くもないけれど…、それでも近くに、自分が生活していた部屋があるのに……、黒川は、帰って来るなと言う。
2019年10月07日
誘惑
黒川が意地悪で言っている訳ではないと、イツキにも解っている。
未だ、光州会や笠原との調整は続き、円満解決に向け黒川は尽力中…だと言う。
行方をくらましているはずの自分が、辺りをウロチョロしていては、まとまる話もまとまらなくなるのか。
掴まって、強行手段に出られても、困る。もう暫くは、姿を見せない方が良いのだろう。
「……じゃあさ、イベント終わった後は? 次の月曜日は、会社、お休みにするって社長が言ってたよ。……遊びに行こうよ、イツキくん!」
「……俺は…、……行かないよ、こっち、戻んなきゃ……」
「…ええー。せっかくの銀座なのに、勿体ないー」
誘いを断るイツキに、ミカは唇を尖らせ、拗ねる。
都会の夜を楽しみたいが、実を言えば一人というのは、心許ないのだろう。
イツキは「ごめんね」と小さく謝り、冷たいお蕎麦と一緒に、誘惑を飲み干す。
本当は、イツキにだって、行きたい場所がある。
『…イツキちゃん、こっち来るんでしょ?……夜、俺んち、おいでよ』
数日前、ミツオからメールが来ていた。
黒川が駄目と言うなら、では、ミツオの所に。
と、まさかそんな事は考えないけれど。
お蕎麦のつゆを飲み干しても
少しだけ、思いが、残る。
2019年10月08日
誘惑・2
『………イツキ!………お前、何だよ!全然、連絡なくて…心配したんだぞ!
今、何やってんだよ?どこ、いるんだよ?……イツキ!』
「………かじわら…?」
ふいに繋がってしまった電話に、イツキ自身が、びっくりする。
ミカとの買い物を終えて部屋に帰ったのは20時近く。普通に疲れた。
風呂に入り、缶ビールを一本飲むと直ぐに眠くなる。明日は、仕事。
ごろんとソファに横になり、ケータイを眺める。
『また、連絡する』
と言ったきりの黒川からは、一向に連絡はない。
「………マサヤは…きっと、忙しい…。あちこち駆け回って、俺の問題、片付けてる…、……と、思う…。………ん…」
そう、自分に言い聞かせてまどろんでいる所に、突然、ケータイが着信を告げる。
寝ぼけ半分、うっかり、電話を受けてしまった。
春以来、梶原からは何度か連絡を貰っていたのだが、イツキはいつもはぐらかし…
ここ暫くは、「用事で都内にはいない」と、つっけんどんな対応をしていた。
それでも梶原は持ち前のしつこさで、定期的に連絡をくれていた。
通話が繋がったのは稀で奇跡的で、梶原は嬉しさのあまり鼻息も荒く、興奮しているのが電話越しでも解る。
『…イツキ!とにかくさ、ちょっと、会おうぜ?……ちょっとでもいいから…
……今週末はどう?……俺、どこでも行くぜ?……な、…会おうよ………』
久ぶりの梶原の声に、ほんの数か月前の、高校生だったころの感じが……ぶわっと胸の奥に広がり、……息が詰まる。
本当に、まだ、ほんの数か月前だと言うのに…。……こんなにも、遠い。
2019年10月09日
誘惑・3
週明け、月曜日。
林田と一緒に「道の駅」で作業をしていたイツキは、帰り道、夕食に誘われる。
「国道沿いの餃子屋。羽根つきバリバリの。……ビールも大丈夫」
そう言われては、断れない。
良くも悪くも地方の店では、飲酒の年齢確認が緩い店もあり、この店も大丈夫なのだとか。
それでも一応、奥まった隅の席で林田が瓶ビールを頼み、イツキのグラスにこっそりと注ぐ。
「……って、林田さんだって、車…。帰り、運転は?」
「代行、頼むよ。さすがに運転は駄目っしょ」
そう言って笑う。笑って、イツキにビールを注ぎ、餃子を食べる。
色々。…本当にイロイロと事件に巻き込まれた林田は、ようやく、頭の整理がついたようで、イツキとも普通に話せるようになっていた。
エロくて可愛い男の子。でもヤバイ彼氏持ち。これ以上踏み込んではいけないけれど…、まあ、友達として距離を取るなら問題ないかな。と。
もっとも、その距離が取れず、みな苦労しているのだけど。
「……えっと……火、水、木、金…、あと4日でフェスタかぁ…」
指で数えながら林田が言う。イツキもこくこくと、頷く。
「あっちもこっちも忙しくて目が回りそうです…。当日って、林田さんも一緒に来てくれるんですか?」
「……会場にはいるけど、他にも担当してるブースがあって、…ハーバルに付きっ切りは出来ないんだよね」
「…ええー、そうなんですかー、うう…」
ビールのグラスに口を付けながら、恨みがましく、イツキが唸る。
そんな様子も可愛いと思い、イヤイヤイヤと慌てて、林田は雑念を振り払う。
2019年10月11日
誘惑・4
「……俺んとこの会社で関係してるのがハーバルさんと…もう2つと…、あとレストラン部門もあって…、……オーガニックワインと地元食材のコラボメニューが……」
「レストラン!同じフェスタの会場で、あるんだ?」
「ああ。コラボメニューの試食がてら、行くよ?…一緒に行く?土曜日?」
口に頬張った餃子をビールで流して、林田はカバンの中から、そのレストランのリーフレットを取り出す。
お洒落な、イタリアン。フェスタ期間中はワインの飲み放題もあるらしく、思わず、目が釘付けになる。
「……でも、俺、土曜日は…、……一旦、こっち、戻って来るから……」
「そうなんだ? ミカちゃんなんかは、向こうで泊まるって言ってたけど」
「……うん。……俺は…、……土曜も日曜も…ぴゅー帰り……」
明らかに本意ではないらしく、イツキは不機嫌顔でビールを啜る。
「……そっか。まあ、帰れない距離じゃないしね。…都内のホテル代は馬鹿にならないもんね」
「………ん…」
「……それとも、……一緒に泊まる?……俺、ビジネスホテル、取るけど…」
「…ううん。……別に、泊まるトコが無い訳じゃないから……」
少し寂し気に視線を逸らせるイツキに、何か、のっぴきならない事情がある事は感じられたが、あえて、尋ねない。
おそらく、あのヤバイ恋人を含め、何か、問題があるのだろう。
イツキが言い出さない以上、林田はオトナの対応で、静観するだけとする。
イツキも、愚痴を零したいところだが、ここは我慢する。
我慢する代わりに、吹っ切る様にニコリと笑って、残りのビールを一気に飲み干した。
誘惑・5
すっかり良い感じに出来上がり、餃子屋を出る。
店の外には頼んだ運転代行の車が停まっていて、イツキと林田はその車に乗り込む。
先にイツキの家。林田は、後。
「………林田さんは…、………いい人ですね…」
「……え?」
「……俺と、ちゃんと…、……接してくれる。……あんな事があったのに…」
後部座席に並んで座り、イツキは、酔っぱらったたどたどしい口調で、そう話す。
酩酊しているのか、何かの作戦なのか。ちらりと視線を寄越し、いつもの笑みを浮かべる。
「……そ、それは…、…イツキくんが、仕事、一生懸命頑張っているからだよ。……一緒に働く仲間としてさ、……フェスタも、成功させたいし……」
「……う…ん…」
イツキはどこか嬉しそうにこくんと頷き、ふふふと笑い、そのまま…、…眠気が限界という風に、林田の肩にもたれ掛かる。
茶色い、柔らかなイツキの髪の毛が、林田の鼻先をくすぐる。
白いうなじ、赤く色づく耳たぶ。
どれもあの、間違いを起こしてしまった日と同じ様子。
身体の奥がどくんと脈打つ。……これはマズイと自覚する。
……勃たせては、シャレにならない。……イツキに処理して貰う訳にもいかない。
……このままイツキの頭を押さえつけて、……膨れたズボンの中身を取り出し、口に突っ込んだらどれだけ……気持ち良いか……など
考えまいとするほど、その事だけが、頭の中をぐるぐると回る。
2019年10月13日
誘惑・おわり
イツキには
無防備に林田を誘惑しているつもりは、さらさら無い。
途中、はっと目を覚まして、自分が林田の肩にもたれ掛かっているのに気づき、慌てて身体を離して照れ笑いなどを浮かべる。
林田も、自分の下心を見抜かれた気がして、照れ笑いを浮かべる。
「………お客さん、サンコーポが先ですか?次の信号、右?」
「……ああっ、はいはい、はい」
代行の運転手に声を掛けられ、林田の理性はギリギリの所で保たれたのだった。
林田に「ありがとう」と「おやすみなさい」を言い、イツキは自分のアパートに帰る。
うっかりまた簡単に、間違いを起こしそうになった事を、軽く反省する。
……つい先日、林田を部屋に連れ込もうとして、黒川に殴られたばかりだと言うのに……
「……まあ、今日は、マサヤ…、いないけどね……」
そう独り言ちて、笑う。
この場にいなくとも…、きっと…、今時分も自分のために何か奮闘してくれているのだと、そう信じることにする。
狭い風呂場でシャワーを浴びて、自分で自分を慰めて
鳴らないケータイを握りしめて、眠った。
2019年10月14日
足りないイツキ
夜中に目が覚めて、あとは、眠れなくなってしまった。
何度寝返りを打っても、場所が決まらない。
身体が熱い。
ふいに手が触れた…腰が、じりじりと疼く。
前でも後ろでも、今なら簡単に、イってしまいそうな気がする。
今までイツキは、それこそ過剰な程、欲にまみれた生活を送って来たわけで
それが、ぱたりと無くなれば、身体が飢えてしまうのも当然で。
したくなったからと言って、恋人でもない林田を、部屋に引き込むわけにも行かない。
だからと言って、見ず知らずの男を引っ掛けて来るわけにも行かない。
「……………ん……」
自分で自分を触ると、鼻から、甘ったるい息が抜ける。
一人の部屋に響く。待っていても、誰も、何もしてくれない。
こんな事なら
『仕事』を続けていた方が良かったかも知れない。
と、イツキは思った。
2019年10月15日
甘い欲求
翌日火曜日から、フェスタ前日金曜日まで。
有難いことに仕事が忙しく、イツキは、余計な事を考えずに済んだ。
向こうに行ったのなら、自分の部屋に帰りたい……ついでに、黒川に会いたいだの、
欲求不満で疼く身体を、認めたくない。認めたところで、どう満たせばよいのか解らない、だの。
「……いや、解んない訳じゃないけど。……ヤればいいだけの話だけど…。……問題は、誰と、だよね…。………はは」
仕事の合間のおやつにシュークリームを食べながら、イツキは、一人、冗談めかしてそうつぶやく。
「……はい、イツキくん、お茶。そのシュークリーム、美味しいでしょ?ホイップとカスタードが入ってるんだよねー」
「……ミカさんは、…なんか、もやもやってする時、ありますか?」
「あるよー。シュークリームとエクレア、どっち買うかずっと悩んでて…。結局、帰ってからも、やっぱり買えば良かったって、ずっと考えちゃうの」
要点のズレた受け答えだが、二人、あははと笑って、熱いお茶をすする。
欲しいものは、結局、手に入れなければ気が済まない、という暗喩なのか。
「ずっと考えてるくらいなら、買っちゃった方が良いんですよね」
「そう!そうなのよ!…やっぱり、甘い欲求には逆らえないわよね〜」
そう言って、また二人は、あははと笑い声を上げた。
2019年10月17日
余計な揉め事
「……えーと、こちらがハーバルさんです。取扱いは主に美容関係…化粧品、オイル…石鹸など…。……そうですね、地元の農家さんと協力して天然素材を使ってまして…。
ネット販売…、道の駅にも卸してます。都内の美容室のノベルティなんかも企画から……」
目が回る程忙しい最中に、林田が、今回のイベントの関係者だと言う男を連れ、作業所にやってきた。
フェスタに参加する地元企業を束ねる、元締め、もしくはトラブルが起こった際のケツ持ち…と言った様子。
男は、事務所の中をぐるりと見渡し、細々とした作業をこなす従業員に、温かい笑みを浮かべる。
奥の部屋から社長も顔を出し、男に挨拶をする。
林田はこの後もまだ数軒回る予定があるようで、『……また後でね』と、イツキとミカに小さく手を振る。
イツキはずっと下を向き、仕事が忙しいフリをする。
もっとも、顔を上げ、ニコリと微笑まなくてもおそらく、気付かれていたと思う。
林田が連れて来た男は、イツキが風呂場で出会った刺青の男、松田、だった。
「……ね、ね、今の人、ちょっと良くなかった?」
林田と松田が事務所を出て行くと、すぐにミカが話しかけて来た。
「………いや、俺、見てなかったし……」
「ええー?……ちょっとこっち見てたよー?…どこの人だろうね?…保険屋さんかな?」
興味津々の様子。
どこかの俳優に似た、しゅっとした面立ち、切れ長の目。
スーツを着込んでしまえば、その下に、極彩色の刺青があるとは誰も思わないだろう。
また、余計な揉め事が起こる気配がした。
2019年10月18日
林田と松田
林田は松田の素性を知らない。
ただ、会社の上司に言われ、関係先に連れて回っただけだった。
松田は、こんなイベントには全く興味は無かった。
地元の優良ヤクザとして、一応、関わっている素振りを見せただけだった。
けれどハーバルでイツキを見付け、がぜん目の色が変わる。
「……これで全部ですね。……どうしますか?本社に戻りますか?」
「……いや、どこか…、最寄りの駅にでも降ろして貰えるかな」
「はい」
林田は運転席から、後部座席にどかりと座る松田に声を掛ける。
素性を知らないまでも…、なんとなく…、怖い関係の人物なのだろうと想像はつく。
祭りやイベント、興行に、そういった団体が付くことは、昔から良くある事だった。
「……みなさん、元気な会社で…。……意外と、若い方も働いているんですね」
「ええ。地元の高校にも就職の募集をかけてますから…」
「…ハーバル…だったかな…、……若い…男の子。……あの子も地元の子?」
「…え?……イツキくん?……いや、彼は最近、都内から越して来たんです。…ちょっとした紹介で……」
ごくごく自然な流れでそんな話をして、林田は松田を近くの駅まで送り、丁重に別れる。
その後、林田は残りの仕事を片付けるため、自社に戻り
松田は、駅前からタクシーに乗り、どこかに向かうのだった。
2019年10月19日
人さらい
フェスタの準備が忙しく、イツキが仕事を終えたのはいつもより遅い時間。
日が暮れた夜道を、アパートに向かって足早に歩く。なんとなく、悪い予感がするのは、大抵、当たる。
イツキの脇を一台のタクシーが通り過ぎ、少し先で停車する。
ハザードがたかれたままの車から出て来たのは、松田だった。
「………よう」
親し気な笑みを浮かべる松田。
イツキは、一応、ぺこりと頭を下げると…少し、立ち止まり、それから意を決した様に足早に、松田の横をすり抜けようとする。
が、簡単に腕を掴まれてしまう。
「なになに、何、帰ろうとしてんのよ?」
「…………」
「ビックリしたなぁ…、まさか、こんな所で働いてるなんてね…」
「……離してください、俺、……帰んなきゃ…」
イツキは腕を振り、身体を反らし、さらに反対側の手で、自分の二の腕に食い込む松田の手を外そうとするのだが
それは全くと言って良いほど、ピクリともしない。
本気を出した男の力がどれほど強く、自分の自由を奪うか、イツキは身に染みて知っている。
「…ちょっと付き合えよ、いいだろう?……オシゴトの話も、あるかも知れないぜ?」
「無いです」
「…まあまあ。…とにかく、車、乗れや。……ずっと待たせちゃ、悪いだろう?」
「………やッ…」
有無を言わさず松田はイツキの手を引き、停められていたタクシーまで歩かせる。
イツキは引きずられながら松田の腕をグーで叩き、しゃがみ込んで抵抗しようとして…バランスを崩し、その隙にさらに身体を引かれてしまう。
2019年10月21日
裏目
どんなに抵抗しても、男の力に勝てそうもない。
引き摺られ、タクシーに押し込まれる……その寸でのところで
「……イツキくん?……どうしたの?……その人は……?」
背後から声を掛けられ、思わず、松田の足が止まる。
振り返るとそこには、小森の姿があった。
イツキより遅れてハーバルを出た小森は、途中、何か言い争う人影を見付る。
見ればイツキと…見慣れぬ男。前方にはタクシー。まるで無理やり車に押し込まれ、連れ去られそうな…マンガのような場面。
「………イツキくん?……その人、さっきの…林田さんが連れて来た人?……何?……どう…しちゃった…の………?」
「…………小森さん……!」
イツキは、小森に駆け寄ろうとするが、松田はイツキの二の腕を掴んだまま離さない。
行こうとした反動で、小さく、松田の方に身体がよろけ、つい松田を見上げる。
松田は、突然入った邪魔に、酷く不快そうな表情を浮かべ……ギロリと小森を睨む。
気配が変わる。まるで青い火花が上がるよう。ゾクリと背筋に冷たいものが走る。
「……あ、あ…あなた、イツキくん、離しなさいよ、……嫌がってるじゃないの」
「………なんだ、このババァ…、ウルセエな……」
舌打ちとともに小さく呟く。凄味のある低い声。
男の怖さに、小森はまだ気づいていない。
小森は一歩前に出て、イツキと松田に手を伸ばし、二人を引き剥がそうとする。
けれどイツキは、逆に、背中で松田の身体を押し、小森との距離を取る。
松田が手出しを出来ない、安全な距離。
「…ごめんなさい、小森さん。何でもないんです。あの…、松田さんが…車で送ってくれるって言うの、俺、遠慮して断ってて…、あの、でも、やっぱり…
送ってもらおうかな、ね、松田さん。……行きましょ?」