2019年12月03日
フェスタ・18
イツキが大人しく、男と一緒に車に乗ったのには理由があった。
一つは、すでに腕を掴まれ、口を塞がれ、自由が効かなくなっていたことと
もう一つは、首筋に、鋭利な刃物を押し当てられたからだった。
「はは。まさか。切る訳ないでしょ?。……一応ね、脅しの定番ってヤツだよ」
後部座席。イツキの隣りに座る男は、どこか楽し気にそう言う。
「………どうするつもりなんですか…、……笠原さん」
突然、自分の前に現れた笠原に、そう尋ねる。
声を出して初めてイツキは、自分の喉がカラカラに乾いていることに気付く。
「…うん?…ちょっとお喋りしたいだけだよ。……色々、聞きたいこともあるしね」
「…なんで…、俺が…あそこにいるって…、……知って……」
「…ハハ。イツキくん、行方知れずだ何だと言っても、黒川とは会うんだろうなっ…てね。……ビンゴだったよ」
話は簡単で。
笠原は、常に黒川の周辺を見張らせていたのだった。
夕べ、イツキがマンションに立ち寄った時に存在がバレてしまった。
朝方、マンションを出て、一人でタクシーに乗ったのも尾行され……居場所を特定されてしまう。
フェスタで働いている最中からずっと、イツキが一人になる機会を伺っていた。
「…それにしても、デパートの売り子さんとは…驚いたな。 何?売り物は、自分の身体?」
馬鹿にしたように笠原はくすくすと笑う。
イツキはちらりと横目で睨み、ふいと窓の外を向き
どう…対処するのが正解なのかを…考える。
黒川に、助けに来て欲しい……けれど
言いつけを破って、マンションに帰ってしまった自分が悪いのだと
唇を、噛みしめた。
フェスタ・19
「…まあ、そんなに緊張しなくてもいいよ。俺は、本当に、イツキくんと…ちょっと話がしたかっただけなんだよね…」
刃物を突き付けられ強引に連れ去られ、そう言われたところで、安心はできない。
イツキは身を固くし、車のドアに寄り、なるべく笠原から距離を取る。
どうにか隙を見て逃げ出したいところだが、ガラスにはスモークが貼られ周りの様子も解らない。
どこかに連れて行かれるまでもない。すでに、密室。
「……笠原さん、もう、俺とは、……あれで、お終いって…約束しましたよね?」
「ああ、アレはね。でもその後に、また案件があってね。ホラ、俺、光州会と手を組んだだろう?……そうしたら、イツキくんが、付いて来たんだよ」
そう、言うも、順序は逆。
イツキと絡みたくて、光州会と組んだのだろう。
「……光州会の件にしても、俺、もう……、何もないはずです。全部、終わってます」
「………そう?」
ふと、笠原はイツキの方を向き、まるで値踏みでもするようにジロジロと眺める。
ずいと前に乗り出し、間合いを詰める。
イツキの顔に、手を伸ばす。
そのまま体重ごと預け、唇を重ねる。
イツキは口を真一文字に結び、せめてもの抵抗を見せるのだけど
笠原はイツキの頬を鷲掴みにし、その口を、強引にこじ開けた。
2019年12月05日
フェスタ・20
強引にこじ開けた唇に笠原は侵入し、辺りを舐めたり吸ったり、噛んだり。
それでも意外とあっさり後退し、唇を離す。
嫌がる、イツキの様子を、楽しんでいるようだった。
イツキは濡れた唇を手の甲で拭い、また窓の方に寄って、笠原を睨む。
「…そのカラダで、ずい分、荒稼ぎしたんでしょ?…光州の高見沢さんが悔しがっていたよ?惜しいコト、したって…」
「……全部、終わってます。もう、俺、関係ないハズです…」
「そんなイイ金ズルに、仕事…させなくなったのは…、……キミの事、好きになったからかな…、黒川が」
多少、アルコールの残るイツキの頭。
のらり、くらりと続く会話。
笠原はたまに手を伸ばし、イツキの身体を軽く触る。
何に気を付ければ良いのか、解らなくなる。気が散る。
「……好き、とか……、そんなんじゃ…、ない……です…」
「そう?それにしちゃぁ、ご執心じゃない。……未成年の売り子にさ…」
「………俺、マサヤにお金、借りていたので…。それの返済が済んだってことじゃ…ないですか……」
「それなら尚更、イツキくんはもう、自由って事だよね?」
車は一向に目的地に着かず、こんな時間がどれだけ続いたのか解らない。
もしかすると最初からこの時間を作りたかっただけで、目的地など無いのかも知れない。
イツキが答えに困ると、笠原はニヤニヤと笑う。
「イツキくんは、なんで、黒川の傍にいるの?……あんなに、酷い事、されたのにさ」
笠原のケータイが鳴る。
笠原はスーツの内ポケットからケータイを出すと、ディスプレイに浮かぶ名前を見て、顔を顰める。
電話の相手は、黒川だった。
2019年12月06日
フェスタ・21
今、自分がイツキと一緒にいることは、まだ黒川は知らないはずだ。
イツキが助けを求める間も、無かっただろう。
それとも、まさか、この二人は…特に用事が無くても連絡を取り合うのが常で、それが途絶えた時は有事の合図…とでも言うのだろうか。
「……まだ、ちょっと…、……早いよなぁ……」
笠原はケータイのディスプレイを眺め、そう、呟く。
諸々、交渉や取引があるにしても、まだその段階では無い。
結局、その電話には出ずに、笠原はケータイをそのまま内ポケットにしまう。
「……ふん。鼻がいいね、あの男は…」
「……こんなこと、すぐにバレます。笠原さん、マサヤに…怒られますよ…」
「ハハ、怒られる…か。大事な大事なオモチャを横取りされて…ってか。……ガキかよ!」
声を荒げる笠原に、イツキは一瞬、ビクつく。
本当に、すでにこのことを黒川が知っているなら、何か、手を打ってくれるのだろうが…
……それはそれで、また、……胃と腹が、痛くなる気がした……。
『……イツキくん、消えちゃったんだよね』
さして交遊もない田舎のヤクザが、わざわざ電話をして来てそんな事を言う。
松田が今までイツキと一緒にいたことも驚きだが、その松田が、そうやってイツキの身を案じていることも不思議だった。
……何か下心があるのか……と思うが、それはまた後で聞くことにする。
『……消えた?……一人で遊びにでも行っているんだろう、どうせ…』
『いやいやいや。…なんか、コワモテと一緒にお店、出て行ったみたいでさ。……あんたが迎えに来たのかと思ったんだけど…』
『………いや…』
さすがに黒川も、思い当たる節が在り過ぎて、胸がザワリとする。
2019年12月09日
フェスタ・22
『……どうする?……俺、何か、手伝うかい?』
『……いや。……連絡をくれた事は礼を言う。……じゃあな』
そう言って、黒川は松田との電話を切った。
切ってすぐに、まず、イツキに電話をしてみるが……、その電話にイツキが出る事はなかった。
『………クソ』
悪態を一つ付く。久しぶりの都内で、誰か知り合いにバッタリ出会い…付いて行ったのか。
同席する他の誰にも、何も告げずに?……そんな事はないだろう。
そうだとすれば、強引に連れ去られたか。それには心当たりがある。
黒川は、笠原に電話を入れてみる。
けれど、その電話も、繋がらない。
逆に、そのことで黒川は、イツキは笠原と一緒にいるのだろうと確信した。
黒川に無碍に電話を切られた松田は、どうしたものかと、しばらく店の外で呆けていたのだけど
他に何か情報は無かったかと、一度、店の中に戻る。
すでに閉店間際で、テーブルの片づけをしていた従業員は
男子トイレに、ケータイの落し物があったことを教えてくれた。
『……あー、それ、俺のツレのです。今、俺、鳴らしますわ、……ね、繋がったでしょ?』
従業員の目の前で松田はイツキのケータイに電話をかけ、それを回収する。
イツキと黒川と、どこかの強面とのトラブルは
松田にとって何の関係もない、どうでも良い問題だったが
とりあえず…面白そうだと、くすくす笑う。
ここで黒川に恩を売っておくのも悪くはないし、何より
可愛いイツキが、気になるのも、確かだった。
2019年12月10日
フェスタ・23
「………松田さん。……あんたも大概、物好きだな……」
小一時間もしない頃。
松田は、黒川の事務所を訪れていた。
イツキのケータイを回収し、再度、黒川に連絡を入れ
その内、受け取りに行くと言う黒川に、いいからいいから…と食い下がり
半ば強引に、事務所に押し掛けたのだ。
もっとも、事務所の場所を伝えた黒川にも、隙があった。
……やはり、いつもと違う状況。イツキがいないことで、多少、動揺しているのだろうか。
「ハハ。こんな機会でもなきゃ、黒川組の本拠地には上がり込めないもんなぁ」
「……ウチは、『組』じゃないぜ。……ただの、……何でも屋だ…」
「…へー…」
松田は興味津々、部屋の中をぐるりと見回す。
確かに、組事務所にしては狭すぎる部屋。黒川以外の人間もいない。
黒川が、そういった看板を掲げていないのは知っていたが、想像以上の…普通の佇まいに、少し驚く。
「……こんな揉め事に首を突っ込んで、何の得があるんだよ?」
呆れたように黒川が言う。松田は鼻で笑い、持って来たイツキのケータイを黒川に手渡す。
「…まー、何かのご縁ってヤツ?…知らない仲でもないし、このままじゃ、気になるしね」
「……あんた、………もう、イツキと…、ヤったのか?」
「……んー?」
松田が微妙な返事をしたところで、事務所に、一ノ宮が入って来た。
外出中だった一ノ宮は黒川から連絡を受け、そのままあちこちで情報を集め、戻って来たようだ。
見慣れぬ松田をみて、少し怪訝な表情を浮かべるも、とりあえず一礼する。
そして、「………やはり、笠原氏ですね」と呟き、深いため息をついた。
2019年12月11日
フェスタ・24
「…嶋本組の内部の人間に話が聞けまして…、…姿を見せそうな場所をいくつか押さえています…。幸い、まだ時間がそう経っていませんから、内々で片付くのではないかと…」
「……あの阿呆、欲を掻きやがって。…大人しく「駐車場」で手を打っておけば良いものを…」
「どうする気なのでしょうね。このまま、連れ去る訳にも行かないでしょう……」
本当に、早い段階でコトが知れたのは幸いだった。その功労者の松田はちゃっかりソファに腰を下ろし、一ノ宮と黒川の会話を聞いていた。
報告が一区切りすると、一ノ宮が水を向ける。
「…ところで、…こちらの方は?」
「あ、ドウモ。お構いなく…」
「イツキの、…向こうの知り合いだ。…どれだけの仲かは知らんがな…」
簡単な自己紹介を終えると、後はすることが無くなってしまった。
松田は出された茶などを飲みながら、黒川の様子をそっと伺う。
イツキの居場所が解らない以上、今は動きようが無いのかも知れないが…それでも、あまり心配している様子はない。
『……なんだ?……自分のオンナが連れ回されても、別にどうでもイイ感じなのか?……そんな程度なのか?』
ふと、そんな事も思う。
そんなハズは無いことは、この後に解る。
やがて、一ノ宮と話をしていた黒川が、席を立つ。
不機嫌そうな、それでもどこか面白がっているような、微妙な表情。ふん、と鼻息を一つつく。
「………一緒に行くか?……松田さん」
2019年12月12日
フェスタ・25
イツキを乗せた車は、どこかへ停車する。
緊張し身を固くするイツキを横目に、笠原はくすくすと笑う。
窓が開けられ、景色が見える。海の近く、倉庫などが立ち並ぶ殺風景な場所。
運転席にいた男だろうか、開いた窓から笠原に、ペットボトルの水を差しだす。
笠原が、その水を飲む。飲みながら、イツキを見る。
…イツキだって、喉が渇いていると、知っているのだが…
意地悪く笑い、「…欲しい?」と聞くと、イツキは反射的に首を横に振る。
口の中はカラカラで、舌が嫌な感じに張り付く。
「…イツキくんはさ、どうして黒川と一緒にいるの?…もう、借金、終わったんでしょ?」
「……いたいから、…いるんです。別に、…理由なんて…ないです」
「へぇ。相思相愛ってヤツだ。ふぅん…、…あんなに、酷いコトされたのにね」
煽る様に、笠原が言う。
また何だかんだと難癖を付け、たぶらかして来る気だと、イツキは身構える。
………でも、……喉が渇いた。
「中学生の頃から身体、売って…、毎晩毎晩、見知らぬ男にハズカシイ事、されちゃってたんでしょ?
何人の男と寝たの? 数えきれないか。
……ああ、親御さんにもバレちゃったんだよねぇ…、ご両親、泣いてたでしょ? 一番、知られたくないよねぇ…。
可哀想に。イツキくんのビデオも見たよ?…スゴイの。あれ、結構、流出しちゃったよね…、知ってた? マニアの間で、高値が付いていてさ…。ああいうのって、一生、消えないんだよね。
あんな…大股開きで…モノ、突っ込まれて…。それで、イクのも…すごいけどね、ふふ。
全部、黒川がやらせたんでしょ?…酷い男だね」
笠原の言葉は概ね真実だったが、イツキは「はい」も「いいえ」も言わず、とりあえず視線を窓の外などにやる。
……あまり、真に受けて話を聞くと、……いろいろ、思い出してしまう。
真っ黒い海の向こうに、貨物船だろうか、ぽつんと小さな明かりが見えた。
2019年12月13日
フェスタ・26
「黒川は、制裁を受けるべきだと思うよ。イツキくんの人生を滅茶苦茶にしたんだからね。
…ふふ、同業を売る様な真似はしたくないんだけどねぇ…、警察か…、週刊誌でもいいね、イイ記事を書く記者を知っているよ。
…ま、イツキくんも…、……大変になっちゃうけど……」
笠原の言葉が俄かには理解出来ずに、イツキはゆっくりと笠原を見る。
相変わらず、薄く笑う。どこまでが本気なのか、解らない。
「…………笠原さんは、………何が、望みなんですか…?」
「……んー?」
「……マサヤの、……失脚?」
「…それもあるけど…」
笠原は身を乗り出す。狭い車内でイツキの逃げ場はない。
身体をぴたりと寄せ、最初のキスのようにイツキの頬に手をやるのだが、唇は重ねない。
真正面から見つめられる方が困る。けれど、その目の奥に真実があるのかも知れないと…イツキは、笠原の目を見つめる。
「……俺のオンナになれよ」
それが真実なのだとしたら、一番、タチが悪い。
「……か、笠原さんは…、俺のこと…、……別に、何とも…思って無いでしょ?……ただ、俺が…マサヤの、だから……、……欲しいだけでしょ?」
「そんなコトはないよ、イツキくん………」
「マサヤの物が欲しい、とか………、人のオモチャが欲しい子供と、一緒…だね」
2019年12月15日
フェスタ・27
『人のオモチャが欲しい子供と、一緒』
そんな事を言われて、今度は笠原が、イツキの目の奥を見つめる。
怖がり怯え、身を固くしていたくせに、…いけしゃあしゃあと、気に障る事を言う。
生意気な子供だと、笠原は厳しく睨む。空気が変わった事に気付いたイツキは、ひとつ、息を飲む。
それでも臆さない芯の強さが、滲む。
「……こんな、……回りくどい、面倒臭いコト…しないで……、オモチャ、貸して欲しい時は、貸して下さいって…お願いするんですよ」
「……へえ。お願いしたら、貸してくれるの?」
「…いいですよ…」
強気に出たイツキには、勝算があった訳ではない。
ただ、もう、本当に、このやりとりが嫌になっていたのだ。
警戒し、身を潜める生活も、薄ら笑みを浮かべ、のらりくらりとやり過ごす様も。何もかも。
体当たりで身を崩してでも、この状況を、どうにか変えたかった。
「身体ぐらい、貸してあげます。……まあ、どうしたって…マサヤの、だけど。
笠原さんは、……人のオモチャで遊ぶぐらいしか……、出来ないんですもんね」
「……ハァ?」
さすがに言い過ぎたか。
笠原はイツキの胸倉を掴み締め上げる。さらに身体と顔を近づけ威嚇する。
2019年12月16日
フェスタ・28
「…解ってねぇな、イツキ。…出方一つで、黒川がパクられるんだぜ?…もう少し、口の利き方に気を……」
「好きに…すれば…いい……」
首元を締め上げられ息も絶え絶えのイツキは、それでも気丈に笠原を睨む。
「……どうしたって、笠原さんが…落ちるだけ…だよ。同じ仕事の人…売って……、そこまでして、俺を…、他人のオモチャを横取りしたいって…ことでしょ?
笠原さんは、…その程度の男だったって、…みんなが思うだけ…だ…よ…」
イツキの言葉を黙って聞いていた笠原は、ただただ眼光険しく、そのまま、イツキを絞め殺してしまいそうな様子。
実際、首に掛けられた手に、少し、力が入る。
「………は。……よく喋る、オモチャだ…」
しばらくして、その手は解かる。笠原は自嘲気味に笑い、イツキと少し距離を取り、元の窓側に座り直す。
窓ガラスをコツコツと叩くと、車の外で待機していた男が、運転席に戻って来る。
「…出せ。……例の場所だ」と、笠原が男に告げると、男はエンジンを掛け、車を発進させる。
窓は、また、黒いフィルムで覆われ、あたりの景色は見えなくなってしまう。
「…まあね。そこまでオオゴトにする気はないよ。大人しく、イツキくんが付いて来てくれればいいよ。…お願いすれば、貸してくれるんだったね。
俺と、組の若い衆とで…楽しませてもらうよ。ちょっと痛いかもしれないけど。
……いい薬もある。全部ブッ飛んで、気持ち良くなるよ。……もう、戻れなくなっちゃうけど……、ハハハ」
2019年12月17日
フェスタ・29
車はまた走り出す。どこへ向かっているのか皆目見当が付かない。
イツキにとっては、気の遠くなるような時間だった。
それでも、車から降りて移動するなら、逃げ出す機会があると思っていた。
ドアが開いたら、そこがどこであれ、とにかく走ると決めていた。
目を閉じ、口を閉じ、自分の手で、自分の手をきゅっと握り…好機を待つ。
幸いその姿は、笠原の言葉に怯え震えているように見えて、笠原を油断させるのに丁度良かった。
「………ああ、裏じゃない。……そっちは車が…。……正面に停めろ」
笠原が運転の男にそう言う。どうやら目的地が近いらしい。
カチカチとウインカーの音。車は小さく曲がり、止まり、……やがて、エンジンの音も聞こえなくなった。
運転の男が先に降りるようだ。
カタン、とドアのロックが解かれる音がした。
「……馬鹿か!……そっちへ回れ、早く!!」
運転席のドアが開き、男が外に出かけたのと
イツキがドアを開け、外に飛び出したのと
それに気付いた笠原が叫び、男に指示を出したのは、ほぼ同時だった。
笠原も咄嗟に手を伸ばす。
けれど寸でのところでイツキを掴み損ねてしまった。
「待て…、……イツキッ」
車の外に出たイツキは、とにかく走り出す……
……つもりだったのだが、そこはどうやら人通りのある街中で、……すぐに人にぶつかってしまった。
2019年12月18日
フェスタ・30
黒川はと言えば、松田と一緒にタクシーに乗り、どこぞへと向かっていた。
一ノ宮は事務所で、何かしの対応があるかも知れないし、かと言って黒川一人では、何をしでかすか解らない。
適当な第三者がいた方が良いとの、判断だった。
「…イツキくんの行き先、解ったのかい?」
「…多分な」
「何?…あんたらいつも、こんなトラブル起こしてるの?」
「…トラブルは…、イツキだけだ」
車はずっと賑やかな大通りを走って行く。
あまり都心の道に詳しくない松田でも、交差点の看板などから、今、どの辺りを走っているのか見当が付く。
10分…20分ほど乗った頃だろうか、池袋の地名が見え、その一角でタクシーは停車し二人は降りた。
ビルが立ち並ぶ賑やかな通り。ショップや飲食店が軒を連ねる繁華街。
少し先のビルにある「フェリーチェ」というクラブに用があるのだと黒川が言う。
嶋本組内部のリークによると、今夜の笠原の予定はこの場所での「会合」になっていて、しかも、その「会合」の相手もメンバーも極秘事項。
誰も近寄るなと、戒厳令まで出されていた。
「…あそこにいんの?イツキくん?」
「…いや、まだ…、どうだろうな……」
「…ふーん。…聞いて来てやろうか?」
「…はっ?」と、黒川が驚く間に、松田はふらり、フェリーチェに向かって行く。
こんな時に、顔が知られていないというのは、非常に便利なものだった。
2019年12月20日
フェスタ・31
「フェリーチェ」は表向きは普通のクラブだが…裏では違法なゲームなどが出来る場所だった。
建物自体が笠原の縄張りで、上の階には事務所がある。…おそらく、そこいらに監視カメラも設置されているだろう。
店の入り口の前には、見張りとおぼしき黒服の男が一人、立っていた。
そこに松田が、何食わぬ顔で近づいて行く。
黒服は、見慣れぬ男をいぶかしみ、険しい表情を見せる。
「………何か、…用か?」
「……アー、ここ、飲み屋じゃねぇの?……入っちゃ駄目なの?」
「……今日は駄目だ。……貸し切りだ」
松田は黒服の肩越しに、店の様子を伺おうとする。
…もっとも、店は、通路の奥の扉の、さらに奥で…、様子など解るはずもない。
それでも松田はキョロキョロと、わざとらしく中を覗き込む。
「へー、貸し切り?何?宴会でもやってるの?……それにしちゃ、ずい分、静かじゃん?」
「……これから始まるんだよ!……いいから、帰りなっ」
黒服は、ただの酔っ払いを追い返すような素振りで、松田をあしらう。
松田も、通りすがりの冷やかし…といった感じで、へへへ、と笑い、店の前から立ち去った。
「……まだ来てないみたいだぜ?、今から、来んじゃね?」
松田は、少し離れた物陰に身を潜める黒川の元に戻り、そう言う。
その、…身軽で大胆な様子に、黒川は少し驚いていた。
フェスタ・32
黒川と松田は物陰にて待機中。
まるで張り込み中の刑事の様。
「……こっちに戻った途端にユーカイとか…、すごいな、イツキくん。売れっ子かよ。…黒川さんも大変だな。…あんな若くてカワイイ子、どうやって見つけたんだよ」
する事もないので雑談中。もっとも松田ばかりが喋り、黒川は鬱陶しそうに視線をくれる。
応える義理はないのだけど、ここまで付き合わせているのも事実だし、最低限の言葉は交わす。
松田は、少し変わった男だった。
人懐っこいのと、馴れ馴れしいの、丁度良いさじ加減で…、傍に居てもそう、邪魔な感じもしないのだ。
「…親の借金絡みで…まあ、…よくある話だ」
「手籠めにして、商売させて、後は美味しく頂きましたってヤツか、いいな、理想だな」
軽い口調は、若干…馬鹿にされている感もあり…、黒川はチラリと松田を睨む。
松田は、屈託のない様子で笑い、それから少し……真顔になる。
「でも、まー、心配だよなぁ…。コレを警戒して…田舎に引っ込めてた訳だろ? あんたが手を出せないような、そんなにヤバイ相手なのかい?」
「…親戚筋の…、組の…、若造でな。正面切っての喧嘩になると、少々、面倒な事になる…」
「……もう、十分、面倒だと思うけどな。………あ」
話の途中で松田が、あちらを指さす。
「フェリーチェ」の前に、一台の黒塗りの車が滑り込んで来た。