2020年03月22日
受難
「お疲れ様です、社長」
「………ああ」
夕方、事務所に顔を出した黒川に一ノ宮が声を掛ける。
確か、昨日、イツキが戻ったはずだった。しばらくはそちらに掛かりきりになるのかと思ったが、そうでもないらしい。
「仕事が残っているだろう。住田ビルのオーナーと詰めの折衝もある。明日の会合の準備も……」
椅子に座った黒川はデスクに頬杖をつき、まず、何から取り掛かろうかと…あちこちに視線をやる。
珍しく、セットされていない髪。若干お疲れの様子。どうしても来たい訳ではなかったが、仕事もあるし仕方なく…といったところ。
『本当はイツキくんと一緒にいたかったのでしょう?』
一ノ宮はそう言いかけて、口を噤む。
「…緑のファイルはどうした?西崎の奴、持って来たのか?」
「ええ、そちらの…デスクの横の紙袋です。…あ、向こうの箱は先日のお礼にと…、新潟の日本酒が入っているようですよ」
「……ふぅん」
黒川は身体を傾け、床に置かれた紙袋に手を伸ばしかけて、何を思ったか正面に向き直る。
コーヒーカップを手に、デスクに近寄った一ノ宮は、不思議な面持ちで黒川を見る。
「どうかされましたか?」
「……いや…」
黒川はまだ、紙袋に目を落としたまま。
一ノ宮はコーヒーを置くと、何となく、その紙袋を取り、デスクの上に置き直す。
さらに黒川は、隣の段ボール箱にも目をやる。察した一ノ宮はそれも持ち上げ、デスクの上に置く。
「…………腰、ですか?」
「……いや、まあ。………少しな」
そう黒川は言い、一ノ宮は
……ぷっと噴き出した。
2020年03月23日
それだけの話
事務所での仕事を片付けて黒川がマンションに戻ったのは、深夜3時。
……一ノ宮が心配するほど…、腰の様子は悪くは無かったが、……まあ確かに、軽く違和感は残る。
『…どれだけ、…ジジイだよ、俺は…』と、黒川は自嘲し鼻息を鳴らす。
久々にホームで抱くイツキに、深入りし過ぎた事は、否めない。
「おかえりなさい、マサヤ」
「………ああ」
部屋では、普通にイツキが待っていた。
黒川がリビングのソファに座ると、替わりに自分は立ち上がり、キッチンへ入る。
「…お湯割り、飲んでた。……マサヤも飲む?」
「黒霧か?……そうだな」
「俺、さっきまで、ずっと寝てたんだ。……やっぱり、ウチのベッドはいいね」
イツキは焼酎のお湯割りを二つ、作り、キッチンから出て来る。
テーブルに置くと、いつもの定位置。黒川の足元に座る。
こんな時間なのだ、テレビもろくな番組は放送しておらず、電源を入れてみて、すぐに消してしまう。
部屋は静かで、それが心地よい。
「……明日は、買い物、行こうかな…。俺、ちょっと、ご飯とか作るようになったよ」
「…そんな所帯じみた真似はするなよ。だいたい、食うヒマもないだろう」
「…そう?」
イツキは、黒川を見上げる。
黒川も、イツキを見る。
ただそれだけの話。
2020年03月24日
フリ
寝室に入り、ベッドに上がるが
黒川はまだ確認したい書類があると、枕を背に身体を起こす。
イツキは横向きに、黒川の方を向き、身体を丸める。
夕方から結構、睡眠は取っていたのだが…眠ると余計に疲れが出るというやつで…、ほどよく眠たい。
とろんとした目で黒川を見上げ、小さな欠伸を一つ付き、身体をもぞもぞさせ毛布を肩まで引き上げる。
「…マサヤ、…まだ、寝ないの?」
「………もう少しな…」
「……今日はもう、………しない?」
それは、したいのか、したくないのか。
どちらの意味か解らず、黒川はイツキを見遣る。イツキはもう一つ、欠伸をする。
「なんだよ、足りないのか?」
「ううん。俺は…昨日のがまだ残ってるカンジ。 なんか、まだ…変な気がする…」
そう言って笑う。毛布の中でイツキの足が黒川の足に当たる。熱が、昨日の熱を思い出させる。
「……あんなの、今日もされたら…、俺、死んじゃうよ。………ふふ」
「よく言う。…底なしのくせに…」
「とにかく、今日はダメ。マサヤ、我慢してね。……じゃ、おやすみなさぁい」
まるで、求めてくる黒川をイツキが断っているような口ぶり。
黒川はしばらく考えた後「……ハァ?」と声を上げ、持っていた書類をばさりと置いた。
2020年03月27日
避難
カーテンの隙間から差し込む陽の光と腕の痛みで、黒川は目を覚ます。
痛む、腕の上には、イツキの頭が乗っている。
茶色い猫っ毛。白い肌。影を落とす長い睫毛。薄く開いた唇。
気持ちよさそうに寝息を立てるイツキをしばらく眺めようかとも思ったが…、……腕が痺れた。
黒川は、テーブルクロスを引くように素早く、腕を引き抜いた。
結局、ゆうべも、してしまった。
これほど重ねても飽きもせず、満足もせず
また新たな欲求が湧くのが、不思議だった。
追うと、ずぶずぶと沼に沈んでいくようだ。
身動きが取れず、息すら出来ず。それでも離れられず、
知ってはいたが、本当に、タチが悪い。
イツキが目を覚ました時には、もう部屋に黒川の姿は無かった。
あまり寝ない男だとは知っているが、それにしても、少し心配になるほど。
すぐに出掛けなければならないほど仕事が忙しいのか、それとも、他に寝る場所があるのか。
まあ、一緒にいればいるだけ、……身体を重ねてしまいそうなので…、……傍に居ない方が助かる時もある。
「………マサヤ、……元気過ぎ…。俺の方が、身体、持たないよ…」
イツキはシャワーを浴びながらそう呟くのだけど、それは、お互いが思っている事だった。
「…雅也、そんなところで寝ていては、余計、腰に悪いですよ?」
事務所のソファに寝転がる黒川に、一ノ宮は呆れて声をかける。
片方の肘掛に頭を乗せ、もう片方に足を乗せている。
黒川は一ノ宮をちらりと見遣り、構うな、という風にふんと鼻息を鳴らした。
イツキのおでかけ・1
「……マサヤ、マサヤ。俺、ちょっと出かけてくる。…多分、晩ご飯も食べてくる。…じゃあね」
「…………ん?」
午前中。
まだ半分眠っていた黒川の頬に顔を寄せ、イツキはそう言う。
黒川がその言葉を理解した頃には、イツキは部屋を出て行った後だった。
前々から予定が決まっていた訳ではない。それでも、少し外に出たいと思っていた頃だった。
早くに目が覚めたイツキは…、……真面目に仕事をしていたお陰で、朝、決まった時間に起きる様になってしまったのだが……、キッチンで温かい牛乳を飲んでいた。
ケータイが鳴り、メッセージが届く。
何度も何度も連絡をくれる相手。頻繁すぎて、いつもスルーしてしまうのだけど、気が向いて返信を送ると、すぐに返事が返って来る。
まるで、いつ何時何が起きてもすぐに対応出来るように、ケータイの前で待ち構えていた様子。
その姿を簡単に思い浮かべる事が出来て、イツキは懐かしさに、くすくすと笑う。
『じゃあ、夜、会おうか?』
そう告げて、今日一日の予定を、あれこれと考えた。
「………!………来るなら、来るって…!……言いなよ、イツキちゃん!!!」
「……えーと。………すみません、突然に。ミツオさん。……いま時間、大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ!駄目でも、大丈夫だよ!……ほら、こっち、おいで、おいで!」
最初に訪れたのは、ミツオのいる美容院だった。
イツキは以前、短期間だけれども働いていた事がある。
受付のスタッフはイツキを覚えていて、すぐにミツオに連絡をしてくれた。
1分も経たない内に、奥からミツオがすっ飛んで来る。
「…本当はちゃんとご挨拶しなきゃなんですけど…。なかなか、来れなくて…。…俺、ミツオさんには本当に助けて貰って…。……ありがとうございました」
本当に、ミツオには世話になった。ここでの仕事も然り。八方塞りだったイツキに「ハーバル」を紹介してくれて、独りで不安だったイツキを慰め、親身に相談に乗ってくれた。
若干、下心のある元痴漢だとしても……イツキにとって、実は一番の功労者であることは間違いなかった。
2020年03月28日
イツキのおでかけ・2
「…こっちのトラブルは落ち着いたの?戻って来られて良かったよね。ハーバル辞めちゃうのは、ちょっと勿体ないなぁって思ったけど…」
「…そうなんですよね…、俺、ハーバル、好きでした。仕事はまだ…続けたかったんですけど……」
折角なので、髪をカットしてもらう。
鏡の前の椅子に座り、優しくブラッシングされ、ミツオの手が触れる。
ハサミを入れる音、時折耳たぶに触れる手、シャンプーの指先の力加減、目を閉じ、耳だけで感じるミツオの気配。
「イツキちゃん、美容関係の仕事、向いてるのかもね。フェスタも、楽しかったでしょ?」
「……はい…」
「何か続ければいいよ。……ウチは、…今、空き、無くなっちゃったけど…、何か…」
「……俺もちょっと、考えてます。……何か、したいなって……」
伸びすぎた毛先を整えてもらい、一番良いトリートメントを入れて貰う。
触ると手櫛がすとんと落ち、自分でも気持ちが良い。
美意識が高いと、意識している訳ではないが……、……他人に身体を触られる機会が多いせいもあって……、……きちんとしていなければいけないと思う。
……自覚はなくとも、……常にどこかで、……自分は「商品」なのだと、思っているのだ。
「……どう?……後ろ、もう少し短い方が良ければ……」
「ううん。丁度良いです。良い感じ…。ありがとうございます」
「…イツキちゃん、もっと話し、したいんだけど…、……今日、仕事上がりに……」
イツキは仕上がった毛先を摘み、引っ張り、ニコリと笑う。
そして、今日はこの後、予定があること。今度改めて、ミツオとの時間を取ることを約束して、美容院を後にするのだった。
2020年03月29日
おでかけイツキ・3
約束は17時だったのだけど、外に出るなら、他の用事もすべて済ませてしまおうと思っていた。
ミツオに挨拶をした後は少し、買い物。
都内の百貨店のココでしか取り扱わない七味唐辛子や、老舗の和菓子屋の羊羹や、
こだわりの好きなものをいくつか買い、途中、カフェで一休みする。
アイスコーヒーの氷がカランと音を立てる。
いつの間にか、季節はすっかり夏になっていた。
大通りをプラプラと歩く。
都会の人混みはあまり得意ではなかったけれど、久しぶりに見る景色は、やはり懐かしい。
多少の危険はあっても、ここが落ち着く…と、ギラギラ光る繁華街の看板を眺めた。
約束した場所は、駅前にある普通のファミリーレストランだった。
イツキは待ち合わせより5分早く到着したのだが、すでにその入り口には相手が立っていた。
「…イツキ!」
イツキに気付くと声を上げ駆け寄り、抱き付くのを辛うじて我慢して、手をぐっと握る。
「ひ…久しぶり、梶原」
「久しぶりすぎだろ!連絡もなくて……心配したんだぞ!」
「ごめん。ちょっと、バタバタしてて……」
高校を卒業してからまだ半年にもならないが、はるか昔のことのよう。
久しぶりに見る友人の顔に、イツキも思わず、もらい泣きしそうになっていた。
2020年03月30日
イツキのおでかけ・4
「…マジ?…仕事してたの?…一人暮らしして?……お前が?…嘘!?」
「………そんなに驚く話?」
「そりゃそうだろ!………へえ……、仕事!」
ファミレスで夕食を取りながら、ここ数か月の疎遠を理由を、イツキはざっと説明する。
少し、新宿を離れる事情があり、離れた場所で一人暮らしをしながら、ハーバルで働いていた事。それも終わり、戻って来た事。
「…先月は銀座の百貨店でイベントがあって、…俺、カウンターで普通に販売してたんだよ。……ハンドクリームとか、オイルバームとか…」
イツキは自分のカバンの中から、いつも持ち歩いているハーバルのハンドクリームを取り出す。
「梶原、手」と言って、梶原に手を出させるとその手を取り、クリームを乗せ、くるくるとマッサージするように塗り込める。
……イツキは、ハーバルでの仕事のつもりだったが……、梶原には少々、刺激が強い。
梶原は慌てて手を引っ込め、危うく、コーラのジョッキを倒しそうになった。
「…いやっ、あー、……へえ…。そっか…、そんなコト、してたのか……」
「楽しかったよ。……まあ、他にもイロイロ、あったんだけどね」
……イロイロの中には、笠原や松田の件が含まれたが……、梶原相手にあまりキワドイ話も無いだろうと、流す。
簡単に流せるほど軽い問題でも無かったはずだが、イツキはニコリと笑い、食事の続きに戻る。
その笑顔がすこし、大人びて見えて、梶原は少し焦る。
自分は大学生活を始めて「東京歴史サークル」に入って、新入生歓迎コンパがどうだったとか、「江戸城本丸ツアー」がどうだったとか……
そんな話はまるで子供じみていて…、……イツキに話すことが出来なくなっていた。
2020年03月31日
イツキのおでかけ・5
「梶原は?……ガッコ、どう?……勉強、難しい?」
「あー、ううん。…好きでやってるしな。…ああ、でも一年は一時間目が多くて、朝早いのが大変…」
「……カノジョとか、出来た?」
デザートのチョコレートパフェを食べながら、イツキが悪戯っぽく聞く。
…梶原が、イツキを好きだったと…、知らない訳ではないだろうが、……イツキにとってはハナからその対象ではないのだろう。
梶原はチーズケーキを乗せたフォークを口の前で止めて、イツキを見る。
高校の頃と変わらず可愛い。……その上、さらに、色香が増した気がする。
「………出来ないよ。……作る気もないし」
「…ふぅん?」
そう惑わすような返事をして、話はここで終わってしまった。
ファミレスを出て梶原は、…無理して背伸びをして、…次はちょっと大人びた店に行こうとしたのだが
イツキは時計を見て「……あー、俺、もう帰んなきゃ」と申し訳なさそうに言う。
大人びた店に行ったところでこの二人では、酒が飲も飲めないのだ。これ以上、誘うことは出来なかった。
「……そっか。……じゃあ、またな、イツキ」
「…………ん」
「……イツキ」
バイバイと手を振るイツキに、梶原は一歩近づく。イツキは一瞬よそ見をして、タクシー乗り場に車が停まっているかなどを確認する。
「………イツキ、……また、連絡していい?………また、メシ、とか…」
「勿論。昼間、どっか遊びに行くのもいいね。梶原、また誘って?」
「………おお!!」
多分、裏表のない素直なイツキな言葉に梶原は大いに喜んで、
じゃあな、と手を振って、タクシー乗り場に向かうイツキを見送った。