2020年06月03日
甘ったるい2,3日
イツキに何かトラブルが起き、それが収束すると
なぜか数日間は、奇妙に、甘い時間を過ごしてしまう。
愛だの恋だの。嫉妬だの、モラハラだの。それに言葉を付ける事もないが
朝から晩までベッドで過ごしたかと思えば、ふいに、飽きたように離れていく。
「今日は遅くなる。……勝手に出歩くなよ」
「………はぁい」
そう言って、黒川は仕事に出掛け、イツキは久しぶりに部屋に一人になる。
言われなくとも出掛ける用事はないが、わざわざ釘を刺されると少し、ムカつく。
それでも、
『…俺が留守の時は…、鎖で繋いでおくか?……余計な心配をしなくて済む』
などと言う男だ。
下手に口ごたえをして、それを実行されてもかなわない。
イツキはベッドから起き、あちこちに散らばった服やタオルを掻き集め、洗濯機に放り込む。
ビールの空き缶が並んだリビングのテーブルを片付け、台所でゴミをまとめる。
久しぶりに窓を開け、掃除機を掛ける。機嫌よく鼻歌などを歌う。
黒川の帰りが遅いのならば、晩ご飯は何にしようか。冷凍庫に残した良い肉を焼いてしまおうか、出前でも頼もうか……と考える。
結局、食事は、カップラーメンにしてしまった。
お湯を注ぎ、出来上がるのを待っていると、……黒川が部屋に帰って来た。
どうやら予定が変わったらしい。テーブルの上のカップラーメンを見ると『…そんなもの食っているのか』と鼻で笑い
黒川自ら台所に立ち、赤ワインをラッパ飲みしながら
冷凍庫の良い肉を、焼いた。
2020年06月08日
束縛カレシ
『イツキくん! 今日、時間ありますか? あたし明日には向こうに帰っちゃうんだけど、ご飯、一緒にどー?』
ミカからメッセージが来た。
イツキはリビングのソファで半分横になり、気の抜けたテレビをなんとなく眺めていた頃。
時間は、ある。けれど。
「……ごめん、無理」
『ええー。カレの束縛がキビシイ?』
「ふふ。まあ、そんなとこ」
冗談めかしてみるけど、大筋では間違いではない。
まだイツキが一人で外出するのを、快くは思わないだろう。今しばらくは…、……大人しくしている期間。
『そんなんで仕事、出来る? ハーバル東京常設店、秋には決まりそうだよ?』
「それまでには大丈夫だよ。落ち着くよ、多分」
『この間の話もちゃんと聞きたいんだけどなー、イツキくんのカレ、何者なのよ?』
イツキは返信に困り、暫く、手が止まる。
「ヤクザ」では無い。非常に近いのだけど…微妙に違う。どう説明をすれば正しく、後々、問題にならないのか解らない。
そうこうしている内に、黒川が寝室から出て来た。
イツキはケータイを仕舞い、ソファから立ち上がり、キッチンへ入る。
これから事務所に出掛ける黒川に、コーヒーでも淹れようと、湯を沸かし、カップを用意する。
黒川はその隣に立ち、何気に、イツキの髪の毛をくしゃりとやった。
なんのことはないお話シリーズ・笑
2020年06月09日
定番の
最近。イツキはコーヒーを、ハンドドリップで淹れるようになっていた。
以前は、インスタントコーヒーを適当に牛乳で割る程度で満足していたのだが、何かの折に器具を揃えてからは、手間を惜しまず。
自分で飲む分にはそう構わないのだけれど、淹れている間の香りが好きだった。
「おはよ」
と言っても、もう夕方。
寝室からリビングに出てきた黒川に声を掛け、イツキはコーヒーの用意をする。
ケトルに湯を沸かし、ドリッパーにフィルターを引き、挽いたコーヒー豆を用意し、マグカップを二つ温める。
リビングではガサガサと、黒川が新聞を捲る音。
やがて、落ちた、コーヒーを持って、イツキがカップを運んで来る。
朝ではないが、朝の雰囲気。もうすっかり、この部屋の定番になってしまった。
「…マサヤ。何か、食べてから、行く?」
「いや。……すぐに一ノ宮と出掛ける…」
「ふーん」
留守番のイツキは、これから出掛ける黒川を横目で眺め…軽く、むくれる。
仕事に付いて行きたい訳ではないが…、部屋にいてばかりも…、それはつまらないものだろう。
「…俺、また、コーヒー屋さんに行きたい。……あの、お菓子とか一杯売ってるトコ。コーヒーと…、チョコと。あと、たらこマーガリン、買いたいんだ」
「…そうだな。そのうち…」
「…別に俺、一人でも良いよ?…行けるよ? 駅の向こうっかわの百貨店だよね」
黒川はコーヒーを啜り、香りを楽しむように一つ鼻で息をして、もう一度コーヒーを啜る。
イツキの問いかけには、聞いているのか聞いていないのか解らない風でいて、そんな事も無い様子。とりあえず……
「……そうだな、ワインを何本か、買っておくか。20時ぐらいに、…ルミネの方な…。…店の入り口で待っていろ」
とりあえず。
まだ、イツキが自由に出歩くのは許さない様子だった。
2020年06月11日
気紛れな男
大事にされているのかそうでないのか、よく解らない。
一人で外に出るのを禁じられるのは、本当にその身を案じての事なのか、ただ、トラブルが起きるのが面倒なだけなのか。
束縛の加減も、気分次第。真面目に受け止めては疲れるばかり。
「………マサヤ、いまドコ?」
『………事務所だ。…ちょっと急ぎの用事が入ってな』
コーヒー屋の前で待ち合わせをしたものの、黒川は現れず。
一時間経ったころ、ようやく電話が繋がった。
「……マサヤ、来ないの? もう、俺、コーヒー飲み過ぎてちゃぽんちゃぽんなんだけど……」
『……馬鹿か。……今日は止めだ。お前、適当に帰っていいぞ』
「……あ、そ…」
悪びれもせずそう言って電話は切れた。
イツキは半ば呆れ、口をぽかんと開け、「…なに、それ」と呟いた。
……黒川と夜の外出。……買い物に行って、その後は多分、食事か酒か…と、期待していた自分が腹立たしい。
このまま一人で、夜の街に遊びに行ってしまおうか。
誰か…、
…佐野かミツオか…誰か電話で呼び出してしまおうかと……、イツキは少し、悪い事を考える。
考えたが、止めた。
理由は黒川に操立てしたからではなく、コーヒーの飲み過ぎで腹が痛かったから。
今日のところは、大人しく家に帰った。
2020年06月12日
ケダモノ
コーヒー屋に行った夜。
イツキはコーヒーの飲み過ぎで若干腹を下し、トイレに立て籠もった後は
寝室の横の、自分の部屋で、丸まって眠っていた。
やっと落ち着き、うとうととしかけた頃に、ガタガタを物音がし黒川が帰って来た。
靴を脱ぎ、廊下を歩き、キッチンの冷蔵庫を開け、水を飲む。
洗面所で顔を洗い、寝室の扉を開け、ベッドにイツキが居ないと解ると
隣りの小部屋にやって来た。
もともとウォークインクロゼットとして使っていたような部屋だ。
シングルベッド……それもマットレスだけだったが……それを置くともうほぼスペースは残らず、しかも壁側には洋服が吊ったままになっている。
雑に段ボールが置かれた様子は、ハーバルで住んでいたアパートの部屋にも、昔、黒川が暮らしていた部屋にも、似ていて
黒川はふふ、と鼻で笑う。
毛布を捲ると、イツキが入っている。
イツキはまだ眠りたいという風に、毛布を引っ張り、さらに潜る。
黒川は再度、毛布を捲り、イツキの身体の上に覆いかぶさる。
イツキは2、3度頭を振って目を開け、重たい荷物の黒川を見る。
「…………マサヤ、お酒、臭い……」
「………何でコッチに寝てるんだよ。……拗ねているのか?」
「……お腹、痛い。……今日は、寝る」
「……ふぅん…」
眠たいのか、本当に具合が悪いのか。か細い声でそう言って、毛布の中で丸まるイツキは
酷く、好みで。
黒川が放って置くはずは無かった。
2020年06月14日
ビロウな話
今までに散々、あんなコトやこんなコトを経験してきたイツキだったが
行為に慣れ、何をされても大丈夫、という訳ではない。
嫌なことは嫌だし、恥ずかしい事は…恥ずかしい。
挿れる所は、出すところで。
「………マサヤ、……やだ。俺、……汚いよ…」
「今更かよ。…濡れて、ゆるくなって…、……丁度いいぜ?」
「………や…………」
フリではない。本当に嫌なのだ。
ついさっきまで本来の目的で使っていた箇所に、指を入れられ、ぐちゃぐちゃと掻き回される。
狭い小部屋のベッドの上では、体勢を整えるのも難しかったが、その感じも男の気分を煽るらしい。
挿れられて、乱暴に揺すられる。
イツキは痛みと気持ち悪さに歯を食いしばり、必死に耐えるが、……そんな中からも快楽を拾えるのが、得意なトコロ。
一応、悔しいので、そんな素振りは見せず…、真上の黒川をキッと睨んでみせるのだが、
目が合った男は、笑う。
それで一気に、身体が…、……おかしくなってしまう。
緩んだ所に一気に根元まで埋められ、擦れ合う皮膚の熱で、溶ける。
もっとも黒川にすれば否応なく飲み込まれて、搾り取られるといった感覚。
お互い、達するまでに、そう時間は掛からなかった。
「……………マサヤ、………俺、………」
「……ん?」
「………………トイレ…、………行く……」
「………ふぅん?」
終わってからも暫く、黒川はイツキの上に覆いかぶさり
趣味の悪い遊びを、続けた。
2020年06月17日
イツキ、管を巻く
朝、黒川が目を覚ますと、部屋にイツキの姿は無かった。
キッチンには、黄身の破れた目玉焼きと、小さなメモ書き。
『出掛けて来ます。遅くならないうちに帰ります』と。
直接、話さなかったのは、言えばまた何だかんだと嫌味を言われることが解っていたからだろう。そこは、黒川も自覚していて
『勝手に出掛けるな。早く帰って来い』と、酷い束縛カレシのようなメールは、送らなかった。
昼間。
イツキは、林田に会っていた。
商社勤めの林田は、担当がハーバルだけという訳ではなく、他にも色々受け持ち
今日はその一つの用事で、東京まで出て来ていた。
イツキの事情は多少はミカから聞いていて、駄目かも知れないと思いつつ…、仕事の合間を縫って昼食に誘ったのだが、意外とすんなりOKを貰う。
「………もしかしてイツキは…、俺に会いたいのかも……」と、林田は鼻の穴を膨らませたのだが、まあそれは、タイミングの問題なだけだった。
とある駅のエキナカのレストランで、待ち合わせる。
「……林田さん!お久しぶりです。午後からもう一仕事なんですか?お疲れさまです。
ああ、東京駅のハーバル、盛況で良かったですよ、秋の常設店の話も聞いてます。
まあ、俺は、どうなるか解らないですけどね。……いえ、仕事はしたいですよ、したいけど……イロイロあって…。
ミカちゃんから何か聞いてますか?
確かに、俺が心配ばっかり掛けちゃうのは解ってるんですけどね。でも、トラブルに遭うのは、俺のせいばっかりじゃ無いですよねぇ?
……半分は、……呼び込んでるんだとは……、思いますけど………」
会う早々、イツキはシラフで管を巻き始める。
2020年06月18日
罪作り
「……は、は。……イツキくん元気そうで良かった。ミカちゃんの話だと、家にカンヅメで腐ってそう…なんて言ってたから」
イツキの愚痴を、林田は笑って受け応える。
イツキはまだまだ言いたい事があるようだが、それもどうかと少し自嘲し、口をへの字に曲げたまま明後日の方を見る。
テーブルに運ばれたランチセットのパスタをフォークに絡め、…巻き取った量が多過ぎたのか一度外し、またくるくるとフォークを回す。
「まあ、彼氏さんもイツキくんのコト、心配なんだよ。向こうで暮らしてた時だって、ちょいちょい会いに来てたじゃない。
ほら、俺、アパートの前で、殴られたし…」
「………それは……、……本当に…ごめんなさい……」
「あはは。愛されてるってヤツじゃないの? …ちょっとぐらいのヤキモチも束縛も、まあ、仕方ないよ。その内、落ち着くんじゃん?」
林田の言葉にイツキは不満げに「……そうですかぁ…?」と洩らす。
まあ、本当に、ちょっとぐらいの事なら、許容内なのだけど。むしろ、嬉しかったりするのだけど。
黒川の場合は、たまに、程度が過ぎるのだ。
フォークを握りしめたまま思いに耽るイツキを、林田はコッソリ眺め……やはり、可愛いな、などと思う。
基本的に整った顔立ち。加えて、こんなに間近で見ても綺麗な肌。触れた時の感触が、未だに手に残っている。
首筋の線も、シャツから覗く鎖骨も、男にしては細く頼りなくて…それが不思議で、他の部分はどうなっているのかと探ってみたくなる。
………交わったあの夜のことが…、鮮明に思い出せてしまう………。
「………林田さん」
「…えっ……はッ、なに?」
こんな所で欲情してどうするのだ。ついイヤラシイ視線で眺めてしまったと、林田は慌てる。
「……俺、愚痴ばっかりでしたね。聞いて貰って少しスッキリしました」
「……そ、そう?」
「……ん。まあ、大丈夫です。ふふ、ありがとうございました」
林田の気持に気付く様子も無く、イツキはニコリと、罪作りな笑みを浮かべるのだった。
2020年06月19日
塩豆大福
「おや、イツキくん。今晩は」
夕方。
事務所に寄ると、一ノ宮が一人。
変わらず穏やかに微笑み、イツキを迎えてくれた。
「…すみません。急に。…帰る途中で寄ってみたんですけど…。……マサヤは?」
「ああ、社長は今しがた西崎さんと出掛けましたよ。…何か、お約束でしたか?…社長、おそらく帰りは遅くなりますよ?」
「……いえ。……寄っただけなので……」
どうしたものかと入り口で立ちすくむイツキに、まあまあお茶でもと、一ノ宮が中に招く。
緑茶はティーパックだけれど、美味しい塩豆大福がありますよと、イツキをもてなす。
「ありがとうございます」
「いえいえ」
「……あ、一ノ宮さん。この間は…、あの、東京駅の……、お騒がせしました。ありがとうございました」
「いいえ。……ナニゴトもなく、良かったです」
一ノ宮も自分のカップに茶を淹れ、イツキの前のソファに座る。
「…大丈夫でしたか?……、社長に、…怒られたり、しませんでしたか?」
「あ…、……大丈夫です」
「あの場所で小野寺会長に会うのは…、イレギュラーでしたね。それでも、…そういう事態は、……これからも起こり得るのでしょうね…」
めずらしく真面目に静かに、一ノ宮はイツキに言葉を掛ける。
黒川と一ノ宮がどの程度、イツキについて話をしているのかは…知らないけれど。……黒川に誰よりも近いのは一ノ宮なのだ。イツキに
迷惑を掛けず、トラブルを起こさず、黒川の庇護のもとに居ろと、命じてもおかしくはない。
「イツキくん」
「………はい」
「…社長は何だかんだとウルサク言うでしょうが……」
2020年06月22日
良い方
イツキは、……何か、…怒られるのではないかと……一少し身構える。
西崎あたりなら間違いなく『…外でヤラれてぇのは解るけどよ、大人しくしてろよ。面倒臭ぇ』と言う所。
「社長の言う事は、あまり気にしなくてよろしいですよ。ああ、トラブルを避けるために気を付けて頂くのは勿論ですが……
社長はあなたを手の届く所に置きたいのでしょうけど…、それを聞いてばかりいると、何も出来なくなってしまいますからね。
あまり、社長に対して、委縮しなくて良いのですよ」
一ノ宮がそんな事を言うので、イツキは驚いて目をまん丸にする。
意外だ、と思っている事を一ノ宮も察したのか、言葉を止めて、ふふと笑う。
「…少し、困らせても罰は当たりません。ああ、何度も言いますが、あなたの安全は一番のことですがね…」
「……騒ぎを起こすなって…、………言われるのかと思った……」
「騒ぎの元凶は、社長なのですから。…構いませんよ」
話を終えると一ノ宮は静かに茶を飲み、イツキに、まだ残っていた塩豆大福をお土産にと持たせてくれた。
事務所からマンションへの道を歩いて帰りながら、イツキは一ノ宮の言葉を考えていた。
本当に自分のことを案じ、黒川を気にせず自由にしても良いと、背中を押してくれているのか。
もしくは、何か、裏があるのか……、好き勝手に振る舞わせて、大きなトラブルを引き当て、酷い状況にさせたいのか…。
「…いや、そんなの。……一ノ宮さんに何のメリットもないじゃんか……」
考えても一ノ宮の深意は解らない。
解らないのでイツキは前向きに、一ノ宮の言葉を良い方に捉えることにした。
2020年06月23日
一ノ宮のお言葉
「…一ノ宮さま、もうお一つ、お作りしますか?」
「……そうですね、お願いします」
行きつきのバーのカウンターで、一ノ宮は静かに酒を飲んでいた。
店主のカオリはグラスに氷を用意し、年代もののバーボンを注ぐ。
奥の席に座っていた客が帰り、店内の客は一ノ宮一人。
カオリは、表のライトを落とし、クローズの札を出す。
それはもう、二人のお約束で
カオリは自分のグラスを用意し、頂きます、という風に一ノ宮に向けグラスを持ち上げて見せる。
「……ああ、カオリさんが気に入られていたお店、…ハーバルさん、秋には東京でオープンするようですよ」
「まあ、嬉しい。…私、ネットの注文が苦手なので…、……あの、可愛い店員さんが入られるのかしら?」
「おそらく。……ウチの社長が首を縦に振れば…ですが…」
一ノ宮は新しいグラスに口をつけ、何かを思い出したのか、ふふと笑う。
それが珍しく陽気に思えて、カオリは目を止める。
カオリは、一ノ宮の商売の細かいところまでは知らないが、……まあおおよその事は察している。
「社長」と「可愛い店員さん」が、訳ありの面倒臭い恋人同士で、一ノ宮が常に気を揉んでいることも知っている。
「…あまり、外に出したくはない…といった感じなのかしら…。…きっと心配なのでしょうね」
「心配…というか、束縛というか…、まあ実際、問題は多いのですが…。
それでもずっと部屋に閉じ込めて置く訳にもいかないでしょう。…ペットならいざ知らず。きちんとした一人の人間なのですから。
これからも一緒にいるつもりなら、そろそろ、関係を見直した方が良いんです…」
言葉の途中で手に持ったグラスをくるりと傾ける。氷が崩れ、カランと音を立てる。
「……本当に、ただのペットなら良かったのですけどね」
最後の一言はごくごく小さく、バーボンと一緒に喉の奥に落ちた。
2020年06月25日
バカンス・1
「…海?……伊豆?……温泉、行く!」
不意に黒川から旅行の提案を受ける。
伊豆下田の老舗旅館。源泉かけ流し。敷地内にはプライベートビーチ。
海の幸も山の幸も食べ放題、地酒も飲み放題。近場にワイナリーまであって
のんびりと一週間。途中、友達を呼んでも構わない。
黒川はビールを飲みながら、旅館のパンフレットをテーブルに広げる。
見るからに立派な施設。日程中には、漁港で花火大会もあるようだ。
「……すごいね、……え、何で…」
「前から…、温泉に連れて行くって話も…、していたからな…」
「………すごいね。………すごいけど…」
イツキはパンフレットを見ながら、半分は素直に喜び、半分は……当然、訝しむ。
こんな至れり尽くせりのプランには、大抵、良からぬイベントがセットになっている。
過去に何度もそんな事があり過ぎて、当然黒川も、隠し通せる訳はないと知っていた。
ふふ、と鼻で笑い、ビールを飲み、卓上の小さなカレンダーを指さす。
「……ココから、ココまで、好きにしていい。なんなら夏の間中、いたっていいぞ。
…俺が行くのはここの週末、三日間。……その時に少し、…用事がある」
「……用事って…、……『仕事』?」
「そんなに酷い相手じゃない。…メシを食って…、……まあ多少は、何か…あるだろうがな……」
黒川のあまりに悪びれない様子に、イツキは口を尖らせ、横目でジロリと睨んで見せる。
それでも、提案を呑んだのは
ここ暫くの生活が少し退屈だったのと、黒川に恩を売るのも悪くはないと思った事。
何か少し、羽目を外しても良いかもと…、イツキの中の悪い部分が疼いていた。
本編には障りのない感じの…番外編的な…笑
2020年06月26日
バカンス・2
指先も唇もそれ以外の部分も、交われる箇所はすべて交え絡まっているというのに、真に考えていることはナカナカ解らないものだなと、
お互い、思っていた。
イツキは、……自分を束縛し時には気遣い、危険から守ろうとする黒川が、未だに「仕事」を振って来ることが、少し意外だったし
黒川は、……イツキがその「仕事」をさして嫌がりもせず、引き受けることが不思議だった。
「………マサヤ。……何か、…した?………なんか、……違う…」
「………ん?………ふふ、違うか…?」
「…お尻、…熱い。……やだ、………へん……」
バカンスの前日。
先に出発するイツキは、一週間ほど黒川と離れることになる。
その分、という訳でもないが、……その夜はいつもより時間を掛け、コトを致していた。
黒川はイツキに潤滑剤をたっぷりと塗り込み、自身を埋める。
その潤滑剤が、実はいつもと違うものだった。
「……お前、よく解るな…。……新しいものを手に入れてな、……さすがだな…」
「………なんか、…変なの、……入って………る………」
「…ああ、まだ勝手に動くなよ。少しは我慢しろ、イツキ」
じりじりと蝕む感覚にイツキは腰を揺する。
黒川は寝室の薄明りの中、悶えるイツキを眺めほくそ笑む。
お互いの深意は解らずとも、とりあえず、身体は繋がる。
繋がれば忽ち陥落する。疑問点など、軽く溶けてしまう。
目の前の問題には目を瞑り、適当な妥協点をみつけてやり過ごすのは、
……二人の駄目な所だった。
2020年06月29日
バカンス・3
イツキは一人で電車に乗っていた。
このバカンスに誰かを誘って良いと言われたものの…、誰も、相手がいなかった。
梶原と大野は学校とバイトが忙しくて、急には、予定が合わせられず
ミカも林田も、どうしても仕事が抜けられないと言う。
佐野や清水やでは、もろもろ、問題がありそうな気がする。
……そうなると、イツキには他に、遊びに誘える親しい友人は見当たらなかった。
それならそれで、一人でのんびり過ごすのも良いかもしれない。
ハーバルの時のように、何も解らず見知らぬ土地に放り出されるのとは、違う。
上げ膳据え膳で、ゆっくりと温泉に入り、景色の良い所で気ままに過ごすのも悪くない。
『……お前、一人で向こうに行けるのか?』
『……馬鹿にしてる?マサヤ?……新幹線だって何だって、俺、一人で乗れるよ!』
『へえ……新幹線じゃ、行けないぜ?』
明らかに馬鹿にした様子の黒川。
…新幹線ではなく、特急列車にのるようなのだが…、…解れば、それくらい、出来ない訳ではない。
ルートを調べ、時間を調べ、手持ちのスマートフォンにチケット入れる方法は、一ノ宮に教えて貰った。
一ノ宮は最後まで、自分が向こうまで同行すると言ってくれたが、それは意地で、断った。
「……別に、ぜんぜん平気…」
危うく、同じホームに到着する別の電車に乗りそうになりながらも、どうにか列車に乗り込み、指定の座席につく。
あとは乗っているだけで、目的地に着く。そこから旅館まではタクシーで良い。
イツキはほっと一息ついて、途中のコンビニで買ったお茶を飲む。
流れる窓の景色が、都会のビルから、緑の多い街並みに変わる。
2020年06月30日
バカンス・4
梶原からメールが届いていた。
『せっかく誘ってくれたのに、ゴメンな。
もしかしたら木曜日は1日空くかも…
そしたら、そっち、行ってもいいかな?』
イツキは『うん』と返事をして、スマホをぱたりと伏せる。
今日は月曜日。黒川が来るのが土曜日。途中、梶原と遊べるのも良い。
それ以外は、一人で過ごしてみよう。
独りきりの時間で、イロイロ乱れた自分自身を、少し思い直してみよう。
などと思った矢先だった。
途中停車の駅で乗って来た客が、イツキの隣りの席に来た。
窓側にいたイツキはちらりとそちらを見る。
半袖ポロシャツが良く似合う、爽やかな好青年。20代前半といった感じ。
「…スミマセン」と男はイツキに声を掛けて、イツキの頭上の網棚に小さなスーツケースを乗せようとする。
「………わっっ」
「……ひあッ……」
男はバランスを崩し、荷物を落とし、あわやイツキに直撃という所で受け止める。
イツキは驚き、変な声を上げ、咄嗟に身体を窓側に反らせた。
「…ご、ごめんなさい、ぶつかった?……だ、大丈夫でしたか?」
「………大丈夫です。……当たってないです……」
男は荷物を抱えながら平謝りし、網棚に乗せるのは諦めて、足元にスーツケースを置く。
イツキは何事も無かったですよ、という風に……息を整え、窓の外に目をやる。
突然目の前に被さった、荷物を抱える男の腕は、力強く、たくましく
おまけに、……不快ではない汗の匂いが鼻を掠めて、………イツキは
酷く、慌てた。