2020年07月02日
バカンス・5
イツキは恋愛対象として男が好き、という訳でもない。
ただ、その行為の経験が多過ぎるために、どうあってもすぐに、……それが、思い出されてしまう。
エサの時間のベルで涎を垂らす犬のように、男が傍に寄っただけで…、……何かが垂れる。
かといって、そんな自分に驚いたり恥ずかしがったりする事にも、もう慣れていた。
ましてや普通の一般人相手に、色目を使うような真似も、そうそう、しない。
「……ああ、かあちゃん?何?……もう電車乗ってるよ。……ああ?シゲんとこ寄るから晩メシはいらんて。……わかった、わかった、ほんならもう切るよ?」
男は途中、掛かって来た電話に小さな声で対応する。小さな声と言っても、隣に座るイツキには丸聞こえだった。
通話を終えるとイツキと目が合う。男が、スミマセンという風に頭を下げるとイツキも、いえいえ、と頭を下げる。
「……久しぶりに実家に帰るんですけど、……母親が晩メシの心配ばっかりで……」
気恥ずかしさからかそう言う男に、イツキは、「いいですね、そういうの」と笑顔で応えた。
結局、一般人の男とはそれ以上の会話もなく、男はイツキが降りる駅の手前で電車を降りた。
緊張していた訳でもないが、イツキはふうと大きな息を吐く。
「………すごい、フツーの人だった。………なんか、空気が違った。清らかだった!
スポーツとかやってるのかな…。腕も太いし…胸板、厚くて。力、ありそう…。
あんな人と、したら……、…………大変かも…。
………いやいや……ないない」
空いた隣の座席を見ながら、イツキは思わず呟き、
うっかり下品な想像をして、くすくすと笑った。
2020年07月03日
バカンス・6
滞在する旅館はすばらしく良い所だった。
海沿いの松林の中に佇み、表向きは純和風の落ち着きある建物。
けれど内装はほどよく近代化され、イツキの泊まる部屋などは星の付くホテルに引けを取らないものだった。
イツキの事はきちんと話がされていたらしく、こんな少年の一人旅でも怪訝な顔をされる事は無かった。
小さな荷物を持ってもらい部屋に案内される。
すぐに女将と、総支配人という男が現れ、丁重な挨拶を受ける。
「黒川さまにはいつもお世話になっております。合流されるのは週末と伺っております。それまでの間、どうぞゆっくりとお過ごし下さい。
近隣には史跡や漁港、ハイキングコースなどもございます。ここにいる竹本は番頭見習いですが、案内なども出来ますので、どうぞご用命ください」
そう言って、イツキの荷物を持っていた男を紹介する。竹本と呼ばれた男は…20代前半。少しふっくらとした気の良さそうな青年で、イツキに頭をさげると。
女将らと一緒に、部屋を出て行った。
ばふんと、ベッドに横になる。
正直、洋風の部屋はありがたい。
家を出てからまだ4、5時間しか経っていなかったが、やはり慣れない移動はそれだけで疲れるものだった。
「………マサヤ、……お世話になっておりますって…、……何、お世話、してるんだろう……」
呟いて、うとうとする。夕食の時間まで、少し、休憩。
……以前訪れた熱海の旅館もそうだったが、黒川は、各地に点々と、こういった懇意にしている場所を持っている。
何を世話して、何に使っているのかは知らないけれど。……まあ、自分の様なコを隠したり、使ったりには、便利なのかも知れない。
実際、女将と黒川との連絡は密で、イツキの滞在中は常に動向を見張られているようなものだったが
それには、気付いて、気付かないふりをすることにした。
2020年07月06日
バカンス・7
眠る前に、黒川と電話が繋がる。
夜を別々に過ごすことなど珍しくもないが、本当に場所が離れているのだと思うと少し、…変。
「……いい旅館だね、古いけど新しくて。お部屋もベッドで、いいね。少し歩くとプライベートビーチがあるんだって、……泳がないけどね、ふふ」
『…海と風呂が売りの宿だからな…』
「晩ご飯も美味しかったよ。別館にレストランがあってね、そこに用意されてて。お刺身が…山盛りで……」
イツキがよく喋るのは、やはり少し、落ち着かないせいなのか。
知らない土地にたった一人きりでいるというのは、たとえバカンスだと言われても、寂しくて不安になるものだろう。
『…歩いて回れる辺りで、色々…、見られる場所があるようだぜ。…まあ、適当に、遊んでいな……』
「ん。……わかった。………マサヤ、来るのは金曜日?」
『ああ、じゃあな』
通話を終えるとシンと静かになり、耳が痛くなる。
普段、マンションの部屋だって、そう都会の喧騒が聞こえてくる訳ではなかったけれど……、それでも静寂の質が違う。
うっかりすると、泣きそうになってくる。
けれど、これくらいの孤独はすでに何度か経験済み。
多少の不安も、心配事も、それが目の前にやって来て避けられない状況になるまでは、考えたって仕方が無いと知っている。
とりあえず、もう寝てしまえと、ベッドに入る。
そして、明日、番頭見習いの竹本が案内してくれると言う漁港の、近くの、磯焼の店のことを
夢に見る程、考えていた。
2020年07月07日
バカンス・8
「……この、ハマグリの入った焼き貝セットと、イカわたホイル焼き、まぐろカマと、エイヒレ……あと、ビールで!」
翌日のイツキは朝から元気で前向きだった。
軽く朝食を済ませると、番頭見習いの竹本が旅館おススメの散策コースを案内してくれると言う。
静かな松林を抜け、砂浜の広がる海岸線を歩き、大昔の地層が剥き出しになっている崖を見上げ、ナントカという武将を奉った祠を眺めた。
風光明媚な景色をながめ、すっかり心が清らかになったところで、昼休憩。
漁港の近くの磯焼屋。地元の人も利用するような気軽な店構え。海の匂いと醤油の焦げた匂いが、イツキの心を一瞬で鷲掴みにする。
「…いいお店ですね。俺、こんな感じ、大好きです」
「良かったです。…ああ、結構歩いて疲れませんでしたか?」
「疲れました。…こんなに歩いたの、久しぶりです」
イツキは笑って、店員が運んで来た瓶ビールを竹本に注ごうとする。けれど竹本は手で止め、「勤務中なので」などと言う。
イツキは……残念そうに顔をしかめ、自分のグラスにビールを注ぐと…もう一度竹本にビールを向ける。
「……一杯だけ…付き合って頂けませんか?……そうじゃないと俺、飲めなくって…」
そう言って、ニコリと笑って、竹本のグラスにビールを注ぐのだった。
2020年07月08日
バカンス・9
竹本は、実は酒好きの男だった。
勤務中でもあり一応、誘いは断ったものの…、女将から「大切なお客様」だと言われているイツキに、失礼があってもいけない。
とりあえず、注がれた一杯は飲み干す。
歩き疲れた体に、染み、思わずぷはぁと声が出て…、イツキが嬉しそうに微笑む。
イツキは別に、男を酔い潰してしまおうとは思っていない。
ただ、楽しい時間が過ごせれば良いと思し、…目の前の男をもてなすのはイツキの、癖なのだし。
「……竹本さん、22歳なんですか。俺とあんまり、変わらないじゃないですか」
「…え、岡部様、お幾つなんですか?」
「俺、19です。あ…、ビール飲んでるのは、内緒です」
今更そんな事を言って、イツキはくすくす笑う。
店員の目を気にする素振りを見せ、ビール瓶を竹本の手元に押しやり、主に飲んでいるのはこの男なのですよとアピールする。
そのくせ、空になった自分のグラスを竹本に差し出し、注がせる。
流れで、竹本は、自分のグラスにもビールを注ぐ。
いつの間に注文をしたのか、ほどなく二本目のビールがテーブルに置かれる。
「岡部様、この辺り…、貝の口開いたやつは大丈夫です。お醤油、垂らしますよ?」
「…あのー、やっぱり…、その岡部様って、止めて貰っていいですか?……下の名前、イツキって言います」
「じゃあ…、イツキさま…?……ああ、ホイル焼きも良い感じです、ぐつぐつ言ってます」
「イツキさま!……ふふふ。……竹本さん、ハマグリお皿に入れて下さい。ああ、お汁、零れちゃうー!」
焼き網の上の貝や魚を突きながら、思った以上に、楽しい時間を過ごす。
帰りの遅い二人を心配して、女将が竹本に電話を入れていたのだが、そんな野暮はものに気が付く余裕はなく
テーブルには、空いたビール瓶が、何本も並んだ。
2020年07月10日
バカンス・10
その後、どうやって旅館に戻ったのかは…うろ覚えだった。
磯焼屋は、17時閉店だったので、そう遅くはならなかったはず。
並んで座って、男の肩にもたれ掛かっていた気がするのは、多分、タクシーに乗ったため。
途中はほぼほぼ山道。二軒目のお店も、ラブホテルも無くて、本当に良かったと思う。
当然、夕食を食べる余裕はなく、イツキは部屋で少しうとうとする。
目が覚め、頭がはっきりしたのは夜の10時過ぎ。……今日は、何もやらかしていない事を確認して……、風呂に入ることにする。
「……そんなに飲み過ぎてはいないけど…。……ふふ。……ハマグリ、美味しかった……」
旅館にはいくつか風呂があった。知らない人と一緒に入るこういった場所は、イツキは苦手だったのだが…、さすがにこの時間なら空いているだろうと、大浴場に向かう。
予想通り、利用者はイツキ一人で、のんびり温泉を楽しませてもらう。
他の時間帯でも、貸し切りで利用できる風呂もあるようだ。次はそれを利用しようかとも思う。
風呂から上がり、部屋から持ってきた浴衣を羽織り、お茶でも飲もうかとロビーに向かう。
ここもすでに明かりが落とされ、シンと静まり返っていた。
自動販売機でお茶を買い、何気にぐるりと見渡してみる。
もう少し早い時間ならカラオケや、軽食を出すラウンジも開いているらしい。
……土産物コーナーも、閉まっている。……けれど、奥のレジのあたりに、何か人影が見える。
そこでは竹本が一人、作業をしていた。
聞けば、竹本は旅館に帰り付いてから、女将にこっぴどく怒られたと言う。
それもそうだろう。近辺を案内し、磯焼屋でご相伴に預かるだけならまだしも…、…午後の仕事も忘れ、飲み過ぎ…、やはり先刻まで居眠りをしていたのだ。
せめて、今日の分の仕事は片付けないと…と、どうにか起き出し、働いていたのだ。
「…ごめんなさい、竹本さん。俺のせいですね……」
「…いやいや、お客様をご案内するのが私の仕事なのに、……調子に乗り過ぎました。……申し訳ない…」
竹本は丁度仕事が終わったようで、帳簿をぱたんと締める。
照れ臭そうに笑い、顔を上げると…、風呂上り、浴衣姿のイツキと目が合う。
…薄暗がりの中で見ると一層…、一緒に酒を飲んでいる時も思っていたが…、綺麗な子だと……、思う。
竹本には変な気を起こすだけの知識も、勇気も無かったが、……身体の奥がドンと熱くなる。
「……でも、俺、すっごく楽しかったです。ありがとうございました。」
そう言って罪作りなイツキはニコリと笑って、自分の部屋に戻って行った。
2020年07月11日
バカンス・11
三日目、水曜日の朝。
目が覚めてイツキは思い出したようにスマホのチェックをする。
昨夜は…、黒川からの連絡は無かった。
…別に悪い事をしていた訳ではないが…、少し、安心する。
「……飲みに行ってたなんて知ったら、きっと、何か言う……」
イツキは独りごちながら、黒川が言いそうな言葉を想像して、ベッドの上で笑っていた。
朝食を食べて、ラウンジでコーヒーを飲み、今日は何をしようかと考える。
フロントのカウンターの中で忙しく働く竹本は、おそらく、今日は付き合ってはもらえまい。隣で女将が怖い顔をしている。
備え付けの観光案内などをぱらぱらとめくる。美術館や水族館もあるようだが、一人で行く気もしない。
それでも街中の、風情のある石畳の道を見ると、ちょっと散歩に行こうかなという気になってくる。
土産物屋だろうか店先に出ている「温泉まんじゅう」と「温泉ソフト」ののぼりが、イツキの目を惹いた。
「…昨日はスミマセンでした…。今日はちゃんと夕食までには帰って来まぁす」
イツキは女将にそう言って、呼んで貰ったタクシーに乗って、街中に向かう。
女将は小さく微笑み、「いってらっしゃいませ」と頭を下げていた。
街中は観光客向けに整備され、とても綺麗で賑わいがあった。
昨日の漁港の磯焼屋のように、ざっくばらんな所も良いが、こういった場所もああ、旅行に来たのだなと…しみじみ思わせる。
案内にあった「温泉ソフト」はすぐに見つかり、店先のベンチで一つ目を食べる。
この先、通りの両側には店がびっちり並んでいる。少し向こうに見える「おでん・地酒」の看板に心が躍る。
「……ヤバイ。……ここも楽しいかも知れない……」
イツキはタクシーの運転手に貰った「ぶらり街中観光マップ」を広げ、ソフトクリームのコーンをばりばりと口を押し込み、次はどの店に入ろうかと考えていた。
2020年07月13日
バカンス・12
土産物屋や雑貨屋をいくつか回り、最後にイツキは「おでん・地酒」の店に入る。
あまり沢山頂いては夕食が入らなくなると、一応、心配し…、お勧めの一皿と冷酒のグラスが乗った「ちょい呑みセット」を注文する。
やがて運ばれて来た地酒のグラスは、下の升にも溢れるほど、なみなみに酒が注がれていて…思わず、にやける。
グラスを持ち上げることも出来ずに、口から、行く。すっきりとした辛口の酒で、するすると飲めてしまう。
「……いやいや。……今日は飲み過ぎない。旅館の夕食だって、すごい、楽しみにしてるんだし。………ああ、俺、……食べてばっかりだ……」
イツキは小さな声で呟く。本当にこの旅行は食べて、飲んで、お風呂に入ってと…、のんびり過ごし過ぎていると思う。
こんなに気ままな時間を過ごして良いのかと、少し、自分を戒めるのだけど……
週末には…、『仕事』があるのだという事が、胸の奥で微かに痛む。
「………それがあるから…、……好き勝手にさせてくれてるのかな…。……遊んだ分は働け、とか……言うのかな。
………じゃあ、もっと、ぱっと遊んでも良いって事かな……」
そんな事をぼんやりと考える。考えている内に、ちょい呑みのグラスは空になる。
今の時間は午後3時。まだ、旅館に帰るには早い時間だと…、…イツキは地酒のお替りを頼んだ。
「……いいね、お兄ちゃん。昼から、酒盛り?」
一人の男が、イツキに声を掛けて来た。
2020年07月14日
バカンス・13
男は見るからにカタギの風体では無かった。
祭でもないのに、藍色の甚平を羽織り、足元には雪駄。
短めのズボンの裾からは、ご丁寧に刺青が覗く。
それでも、物腰は穏やかで、顔も、悪くない。
ふいにイツキは松田の事を思い出し、思い出した事に少し驚いた。
「一人?観光?どこ泊まってんの?」
男はイツキの背中側の、奥の席に座っていたらしい。
イツキが二杯目の酒に口を付けたあたりで声を掛け、自分の飲みかけのグラスを持ったまま、イツキの向かいの席に腰を下ろす。
イツキは男をチラリと見て、……気付かれないほどの小さな溜息をつく。
……うっかり、気を抜き過ぎると……、すぐにこんな手合いに、目を付けられる。
「…それ、何?純米酒の方? ここ、にごり酒も美味しいよ」
「……俺、もう、帰りますから」
「まだ早いでしょ。ああ、じゃあさ……」
男はグラスに口を付けながら、顔をイツキに近づける。……今すぐ席を立って店を出てしまえば良いのだが…、……イツキのグラスはまだ半分以上残っている。
「…もっと良いトコ、行かない?……裏手にさ、……あるんだよね、……いい場所」
あえて言葉を濁しながら男はそう言い、両手を胸の前にやり、丸を描くように誇張する。
それで、イツキは、
男がイツキを、女性がいる場所に案内しようとしているのだと、気付く。
気付くとイツキは、どうにも可笑しくなり、くすくすと笑い出してしまった。
「……え?ナニ?……行く気になった?」
「いえ、……俺、そんな誘いを受けたの初めてで…、ビックリしちゃって…」
「へえ!丁度いいじゃん。……ここだけの話、生でヤらせてくれるよ?……お兄ちゃん可愛いから、サービスして……」
「いえいえ。俺、そう言うのは……」
「するより、される方?」
さらりと聞かれて、曖昧に笑う内に、……否定するのが遅れてしまう。
2020年07月15日
バカンス・14
「……お兄ちゃん、綺麗だもんね。……どっかのウリの子なんだ?」
「……違います」
「ふぅん。……でも、フツーの子じゃないよねぇ?」
男はニヤニヤと笑いながらイツキを眺める。
「……フツーの子じゃないって、……何で、そんな事、思うんですか?」
「はは、だって、俺とこうやって喋ってるだろ?。…フツーの子は、俺らみたいなのとは、お喋りもしねーんだよ?」
そう言って男は甚平の袷を少し引っ張って見せる。肩口にも、極彩色の刺青が見える。
ヤクザ、チンピラ、ゴロツキ。…ああ、確かにイツキはこういった人種には慣れている。
そのイツキの慣れた様子が…、男にも伝わってしまったのだろう。
イツキはふうと息を付いて、残りの日本酒を飲み干した。
「まあ、そんなとこです。じゃあ、俺、帰るので…」
イツキは律儀に、ぺこりと頭を下げて、……席を立ち手早く会計を済ませ、店の外に出る。
「…え?…ちょっとちょっと、お兄ちゃん……」と男は慌て、自分も金を払い、イツキの後を追う。
「なー、もう少し話そうぜ? マジで観光?一人で?…どっかに客がいるとか?」
「………」
「名前は?歳はなんぼ?…一本、幾ら?」
本気のナンパかキャッチのように、男はイツキの真横について、あれこれ話しかけて来る。
イツキはとにかく無視を決め込み、早く、タクシー乗り場に行こうと小走りで来た道を戻る。
「……あっ、兄ちゃん!……危なっ」
「…え?」
ふいに男が声を上げる。イツキは反射的に足を止め、何事かと顔を向ける。
同時に、男はドンとイツキに身体をぶつけ、よろけさせる。
よろめいた先は、細い路地の入口で、勿論をそこを狙っていたわけで、イツキと男は絡まるように暗がりに吸い込まれて行く。
「……な。アブナイだろ?」
バランスを崩したイツキを男は抱き留めながら、そう言って笑った。
2020年07月17日
バカンス・15
足を絡め、覆いかぶさるようにして壁に手を付いて、イツキを見下ろす。
イツキは……こんな状況にも慣れているのだろう、慌てず騒がず、……静かに、困る。
「大丈夫だって。…俺、そっちの趣味は無いからよ。ただ、……もうちょっと見たいんだよね……。……あんたさ、どっか、弄ってるの?」
「……弄ってる?」
「整形とか、ホルモン注射とか…。いや、知り合いにニューハーフとかいるけどよ、……出来が全然違うんだよなぁ、出来が……」
男は、イツキの頬に手をやる。
顔を背けると、空いた首筋に手をやられるのは、お約束。
「肌もキレーだしよ。……カラダ、どーなってんのか……、…ちょっと見たいんだよな…」
「………見るだけで、………済むの?」
「だから、…そっちの趣味は無いからよ。…ケツの穴なんか、穿れねーわ。…胸も無いんだろ?………どうやったら、……感じるんだ? ……イクときは……、どんな声、出るんだよ……」
趣味は無いと言いつつ…、イツキを触る男の手は、今から落とすオンナを触る手と同じだった。
首筋から胸元に下り、腰を辿り、……遠慮がちに、前を触り、指で引っ掻き
すでに張っている自分の腰をこれみよがしに押し付ける。
耳の傍で煽る様に小声でささやき、耳たぶを甘噛みする。
「………趣味じゃないなら、………止めた方がいいよ……」
「……ん?」
少し湿った声でイツキが応える。ちらりと視線だけを流し、男を見つめる。
「……俺に絡むと、面倒臭いコトになるよ。……バックに、怖い人、いるし。
それに………、
うっかりエッチしちゃったら…、………戻れなくなっちゃうよ?」
バカンス・16
男は、本当に男を抱く趣味は無かった。
ここいらでは見掛けない美形が昼間から日本酒を煽っているのが物珍しくて、面白半分、声を掛けただけだった。
それが思いのほか大当たりで……、男自身少し、焦る。
バックに「怖い人」が付いているのも確かだろうし、迂闊に手を出すとヤバイ気配も、解る。
自分の刺青を見ても平然としている。嫌だの、怖いだの、怯える事もない。
白過ぎる首筋を無防備に晒して、見上げる視線は、誘っているようにも見える。
事実、…男が勃ちかけた股間をイツキの身体に押し付けると、イツキは少し腰を震わせ、「………ん」と艶めいた吐息を洩らす。
イツキはイツキで、本気でこんな場所で、どうこうなる気はしていなかったのだけど。
………残念ながら、……日本酒を二杯飲んだ後の身体は、……あまり言う事をきかない。
「………あっ……、………ん……」
「エロい声、…出すな。………止まらなくなる…」
「……止まる、気………ある、……の……?」
とりあえず男はイツキの首筋に顔を落として、身体のそこいらを弄ってみる。
シャツの上から乳首の突起を見付け、カリカリと引っ掻くと、イツキは面白いように反応してさらに声を洩らす。
こんなコトで、こんな風になるなら…、素肌に直に触って刺激を与えたら……どんな風になるのだろう。
喘ぎ声が耳に絡む。男にしては高い、それでも女とは違う。…もっと極まった時には、……どんな声で鳴くのだろうか。
「……あんただって、このままじゃ収まんねぇだろ?……続き、……するか?」
男はそう言って、イツキの股ぐらに手を伸ばす。
…イツキが首をこくんと縦に振る…のを遮ったのは、意外なものだった。
2020年07月18日
バカンス・17
路地裏に入った時には当然気がつかなかったが…
丁度真上に、街の広報スピーカーがあった。
折しも時間は夕暮れ時、17時。
カチリと何かスイッチの入る音がしたと思ったら、すぐに
頭上から大音量で「夕焼け小焼け」の曲が流れて来た、
一瞬で場が和んでしまい、2人とも、ハタと我に帰る。
「……帰んなきゃ……」
「…冗談だろ?……これからお楽しみじゃないのか…」
「…今日の夕食、ローストビーフ食べ放題なんです…」
「………ハァ?」
イツキの言葉に男は少し間を置いて……突然、吹き出して笑い出す。
ほんのちょっと前まで身体中から色気を垂れ流し、ウワバミのように男を飲み込もうとしていた男娼が、
ただの普通の男の子に戻ってしまった。
結果、イツキは男と離れる事が出来た。
「……あんた、面白いな。なあ、まだこの辺にいるのかよ?明日は?」
「明日は用事があります」
「…俺、昼間はたいていさっきの店にいるからよ。来いよ。ローストビーフより美味いもん、食わせてやるぜ」
別れ際、男にそう言われるも、イツキは曖昧に笑ってお断りする。
そして、目の前に止まったタクシーに乗り、旅館に帰るのだった。
「…ヤバかった! 俺、もうちょっとで流されちゃうトコだった。
ああ、でも、ちょっとそれでも良かった…かも。
いやいや、でも、いや、駄目。
そんなにホイホイ、エッチなんてしないんだから!」
イツキの独り言は若干声が大きく、タクシーの運転手に丸聞こえだった、
2020年07月20日
バカンス・18
イツキはどうにか、夕食の時間に間に合った。
別館にあるレストランは好きなものを自由に取れるバイキング方式で
それぞれの料理には担当の調理人が付き、最後の仕上げをして、皿に盛ってくれるのだった。
今日のスペシャルメニューは地元ブランド牛のローストビーフ。
塊肉から好きな量を切り出して貰うそれは期待通りの絶品で、イツキは何度もお替りをしてしまった。
その後は風呂に入る。
酒も、すっかり抜けていた。
……先だってのアレは、一歩間違えれば、ヤバいやつだったな……と、しみじみ、思い返してみる。
どうしてこうも簡単に、男に引っ掛かってしまうのかと……思い当たるフシもなく困惑する。
自分がどれだけ無防備に色香を垂れ流しているのか、当人だけが、気付いていないのだった。
濡れた髪を乾かし、水を一杯飲み、思い出したようにケータイを開くと
いくつか、連絡が入っていた。
明日、梶原がこちらに来られるらしい。
その次の日にはバイトがあるので、一泊して翌早朝には帰ると言うが、それでも嬉しい。
ミカからもメールが入っていた。
ハーバルの件はきちんと時間を作って、対応しなくちゃ駄目だなと思う。
黒川からの着信は
1時間ほど前。イツキが風呂に入っている間にあったらしい。
とりあえず折り返してみるのだが…すぐには繋がらず
一度通話を切って、それから数分後に、黒川から電話が掛かってきた。
『……何だ?』
相変わらず愛想のない、声色。
出先なのか、後ろが少し騒がしい。
2020年07月21日
バカンス・19
『……何だ?』
「…何って。……マサヤが掛けて来たんじゃん…」
『…ああ。………いや、違う…ブルゴーニュの方で……、……金曜日、そっちに着くのが遅くなる。メシは先に食っておけ』
明らかに奇妙な会話。まるでどこかで、誰かとワインを選んでいる様子。
「………マサヤ?…今、…どこにいるの?」
『…ん、まあな。………お前も、遊び歩いているんじゃないぞ。番頭をたぶらかすなよ』
一方的にそれだけ言って、電話は切れる。
イツキはケータイを手にしたまま、どういう事かと、少し考える。
適当にはぐらかされたが、おそらく黒川は今、誰かと一緒に食事でもしているのだろう。
微かに、微かに…、後ろで女性の声が聞こえていたので、そう言った店なのかも知れない。
「遊び歩くな」とも「男をたぶらかすな」とも、良く言われる言葉だが、「番頭」と付くと話は違って
昨日、番頭見習いの竹本と楽しく酒を飲んだ事を、もう、黒川が知っているという事なのだろう。
「……何、それ。……どっかで話、聞いてる?誰か、見張ってる…?」
実際は、黒川と馴染みの女将が、イツキの様子を報告していたのだが……
それはともかく。
ある思いがイツキの頭をよぎる。
黒川は、自分が遊ぶためにイツキを一人で旅行に出したのだ。
その間は、自由に遊べと気前の良さを見せつつ、見張りを付け……
……そして遊ばせておいて、その分、週末は「仕事」をしろ……と。
「………うそ。……そーゆーコト…?」
イツキは力なく呟き、口を真一文字に結び、替わりに鼻で大きく溜息をついた。