2020年10月01日
記録・2
「……オヤジも口が悪いからな。まー、半分はアレだ。やっかみだ。
お前が最近ツレないから、スネて意地悪してるんだ、うん」
佐野はイツキと並んで歩きながら、明るい調子でそう言う。
それは西崎の気持ちを代弁しているようで、実のところ、佐野の気持ちでもあった。
以前は、辛い「仕事」の後や、何かしらのお溢れで、イツキを抱く機会があったが
今はもう、ほぼ、無い。……しかも…
「……別に、いいよ。西崎さんの言うことなんて、気にして無いよ。
それにしても佐野っちは、いいの? 俺、追っかけて、外に出てきたなんて、それこそ後から西崎さんに何か言われない?」
「ああ、俺は元から出掛ける予定だったから。…ほら」
そう言って佐野は届け物だと、手に持っている小さな紙袋をイツキに見せた。
「……西崎さんが意地悪なのなんて、今に始まった事じゃないもんね。
……あの人の中では、俺は、ただのオモチャで、みんなの慰み物なんでしょ。
もう、そんな風に記録されてんだよね、……どっかに」
「…でも、…今は…、社長の恋人っつか…もっとポジション上がってんだろ?
まあ、俺は最初から、お前のことオモチャだなんて思ってないけどな」
「そう?……そうかな?……マサヤだってどう考えてるか解んないよ。
まあ、オモチャじゃないにしたって……、そんなに大事には考えてないでしょ?
途中からイツキの言葉は、黒川への愚痴に変わる。
半ば諦めている風にむくれた顔をして、ふんと、鼻で一つ息をつく。
その様子に、何かどかこか……以前とは違う色気を感じて
佐野は横目でチラチラとイツキを見る。
西崎同様、佐野も、イツキを気にするのは、最近すっかり御無沙汰だから…というだけではなく
その御無沙汰の間に、イツキが艶っぽくキレイになったためだった。
それはおそらく、今まで以上の社長の寵愛を受けているからだろうが…
そうなったイツキを、試しに抱いてみたいと思うのは
自然な流れで。
2020年10月02日
記録・3
「……佐野っち…」
「いや、違う違う違う違う」
佐野と連れ立って何となく歩いて来たイツキだったが
気づけばそこは『ホテル紫苑』の目の前だった。
紫苑は西崎が管理するラブホテルの一つで、当然黒川の管轄内で…良くも悪くも融通が利く。
どう見ても出入りする歳ではないイツキが利用していても、何のお咎めも無い場所なのだ。
ここで『仕事』をした後どうにも動ける状態にならなくて…
…佐野に迎えに来てもらい、そのまま……など、よくある事だった。
その、場所に、来たということは
当然、それを考えている。……と、思うのが筋。
イツキは怪訝な表情を佐野を見上げる。
佐野は大慌てで手を横に振る。
「違う違う。たまたまだって! ホレ、俺、用事があるって言っただろ?」
佐野は持っていた紙袋をイツキに見せ、支配人にコレを渡すだけだからと言った。
外で待っていても良かったし、帰ってしまっても良かったし
一緒に付いていく義理もなのだが、そこは、なんとなく…、中に入る。
実を言えばイツキがここに来るのは数年ぶりで、内装やフロントの様子が少し変わったのを覗いてみたかったのだ。
足元を取られるような毛足の長い絨毯。薄暗い空間に、ところどころスポットライトが観葉植物を照らす。
今は受付は全てタッチパネルで、部屋まで、誰とも会わずに行けるらしいが
昔は対面の小窓があって、部屋番号を告げると、シワくちゃの老婆の手だけが見え、鍵を差し出してくれた。
『…あんた、駄目だよ?……こんな事ばっかりしてちゃ……』
ふいにイツキの耳元に、あの時の老婆の声が蘇る。
感傷に浸るほど切なく美しい思い出ではないけれど、確かに、イツキの中にあり続けるものだった。
2020年10月06日
記録・4
佐野が用事を終えて奥の事務所から出てくると
イツキはフロント前の待合のソファに座って、水槽の熱帯魚を眺めていた。
どことなく落ち着かない不安気な表情は、数年前に見ていたそれと、変わりなく
佐野は一瞬、あの時をイツキを思い出し、身体の一部を熱くする。
「……佐野っち……」
イツキが佐野に気付き顔を上げた時、ちょうど、フロアの奥のエレベーターが到着のベルを鳴らす。
扉が開くと中年の男女が降り、イツキと佐野の前を、小走りで通り過ぎて行った。
こんな場所で、どういった間柄なのかと、気に留めることすら野暮な話。
男女がいなくなると改めてイツキと佐野は顔を合わせ、ふふ、と小さく笑う。
「……なんか、…思い出の場所でもないけど。…色々、思い出しちゃうよねぇ。」
「……まあな。お前、ココで、イロイロあったもんなぁ…」
「あんまりいい思い出じゃないけどね」
イツキがそう言い、またくすくすと笑うと、佐野は
少し思いつめた顔をして、イツキの手をぐっと握り、引く。
そのまま帰るのかと思いきや、フロント前の、部屋の写真が並ぶパネルの前まで行き
今から入れる部屋を、指差す。
「…ヤな思い出のままって、ヤだろ。……上書きして行かねぇ?」
「……何、言ってんの佐野っち。…しないよ?」
佐野の提案を軽く流し、イツキは、佐野の手を振り払おうとしたのだが
佐野の手は意外なほど強くイツキを捉えて、離さなかった。
2020年10月07日
記録・5
「……佐野っち、手、離して…?」
「……俺がココで思い出すのは…お前の泣き顔ばっかりだ。…迎えに来ると、ヤられた後のぐっちゃぐちゃのままで……頭から毛布被って、泣いてた……」
「それ、すごい前だよ。……その後だって、佐野っちとここ、来たでしょ?」
佐野はイツキの二の腕を掴んだまま、耳元で熱っぽく語る。
語りながら身体を押し付け、どれだけ今、自分がイツキを欲しがっているのか直に感じさせようとする。
「…ああ。イツキ。…俺ら、前は…もっと一緒にいたよな。……最近は、あんまり会えなくて…
俺は寂しいよ。……なあ、イツキ。………な?」
何が「な?」なのか解らないが、気持ちは伝わる。
うっかり、流されそうになるイツキだったが…
佐野がぐいぐいと身体を押し付けてくるお陰で、手に持っていた封筒がガサリと音を立てた。
それは、黒川の使いで、西崎の事務所から預かって来た封筒で
それを持って帰らなければいけなかった事を、寸でで思い出す。
「駄目。佐野っち。俺、お使いの途中だった。すぐ帰らないとマサヤに怒られちゃう。
……佐野っちと寄り道して来たなんて知れたら、それこそ大変だよ?」
「…………う…」
もっともなイツキの言葉に、佐野は狼狽える。
そうこうしている内に、後ろから入ってきたカップルがイツキ達を気にしながら……
空いていた部屋を指定してしまい、残念ながらホテルは満室になってしまった。
どうにか佐野と別れ、イツキは急ぎ、黒川の事務所に戻る。
事務所では黒川と一ノ宮が仕事中だった。
「…遅かったな。西崎の所で遊んで来たのか?」
イツキから封筒を受け取ると、ふんと黒川は鼻で笑い、そう言った。
2020年10月08日
記録・最終話
「…佐野っちに会って、少し話して来ただけだよ…」
「佐野?………ああ、ヤって来たのか。……それにしては早い方か」
黒川はいつもの調子で軽口を言う。
イツキの言葉を信用していないのか、あえて茶化しているのか、どうでも良いのか。
イツキが持って来た封筒の中を確認しながら、ふふと鼻で、馬鹿にしたように笑う。
「お前らは顔を合わせば即、だな。はは。挨拶と一緒ぐらいに思っているんだろ?
まあ、抜くには手ごろで丁度いいか、互いに
事務所でもトイレでも出来るからなぁ……」
「………マサヤ」
少し低い、イツキの声色。
何かと思い黒川が顔を上げると、イツキは解りやすくムッと膨れた顔をしていて
黒川が手に持っていた書類を一度、取り上げると、それを投げつける様にテーブルに放り
そのまま一言も喋らずに、事務所を出て行ってしまった。
事務所を出てガツガツと道を進み自分の部屋に帰る。
必死に誘いを断り帰って来たと言うのに、こんなコトなら、本当に佐野とヤッてくれば良かった、などと思う。
西崎も、佐野も、黒川でさえ、自分を、そういう風に思っている。
そんな事は知っているし、半分は事実なのだし、確かにどこかにそうはっきりと刻まれているのだ。
そうそう簡単に消えるものではない。
一日、我慢していた涙が、イツキの目からぽろりと零れた。
「…何だ、あの馬鹿は。急に癇癪を起しやがって…」
「……あなたが、あんまり冗談を言い過ぎるからでは無いですか?」
イツキが出て行った扉を眺め、黒川は悪態をつく。
イツキの分の茶を用意していた一ノ宮は困った様子で、そのお茶を戻し、テーブルに散らばった書類を拾い上げる。
「あれ位、いつも言っている。それとも、図星だったんじゃないのか……あの馬鹿!」
「………そういう所ですよ? 雅也」
まとめた書類を黒川に手渡し、一ノ宮は溜息をつき、気の毒なイツキの事を想った。
2020年10月09日
想像
さて。
自分に染み付いてたイメージの悪さに少々気落ちしたイツキだったが
それを引き摺る程、ヤワでは無かった。
涙は一粒分。
後は鼻水をすすり、帰りがけに持ち帰りの焼き鳥屋で好きな串を何本か買うと
部屋に戻る頃には悲しみより、怒りの方が勝っていた。
「ハー!、そりゃそうですよ。俺はそういうコですよ。誰とでもヤりますよ。
そうやって生きて来たんで!…マサヤにそう、躾られたんで!!」
キッチンで。
買って来た焼き鳥をグリルで温め、冷蔵庫からビールを出し、グラスにも注がずにラッパ飲み。
流しに置きっぱなしの黒川の灰皿を見て、無性に腹を立てる。
「じゃ。ヤって来ればよかった、佐野っちと。どうせそう、思われてるなら!」
『……ど淫乱だな。すぐに股を開く。さすがだな』
したら、したで、結局はそう言われるのだろう。
イツキはキッチンで朝のグラスを洗いながら、ビールを飲み、焼き鳥を食べ、そう思う。
黒川が言いそうな事を想像しながら、冷蔵庫の残り野菜でスープでも作ろうかと、手を動かす。
『そんなにヤりたいなら、仕事にしろよ。丁度いい。趣味と実益を兼ねるってトコだな』
「……ああ、もう、信じらんない。マサヤの馬鹿!」
想像の黒川にも腹を立て、イツキは鍋を火から下ろす。
ビールを数本空ける頃には、すっかりキッチンは片付き、イツキは最後に水を飲んで寝室に入って行った。
夜中。黒川が部屋に帰ると
キッチンには夜食のスープと、ラップが掛かった焼き鳥。
…ゴミ箱には、山ほどのビールの空き缶。
寝室の隣のイツキの寝床は
内側からつっかいがしてあるのか、扉を開けることが出来なかった。
2020年10月12日
悪い男達
イツキに振られ佐野が事務所に戻ると
何を勘繰ってか西崎が、イヤラシイ笑みを浮かべて待っていた。
「……ずい分、早いじゃないか。……用事は済んだのか?」
「……紫苑のオーナーに印鑑貰うだけっしょ?……終わりましたよ」
「ん?……イツキとしけ込んだんじゃねえのか?」
そう言って、周りにいた数名と、また笑う。
イツキが西崎の事務所を出て、そのすぐ後に佐野が出て行ったのだ。
やはり誰もが、そういう想像をするのだろう。
…まあ、佐野も、そう思われるのは仕方が無いと思っていた。
ふんと鼻息を鳴らし、わざと軽く、茶化して見せる。
「あー、駄目っす。あいつ、最近、付き合い悪いんです。ハハハ」
「…マジ、最近、お高く止まってやがるな。何様のつもりだよな、まったく…」
「…ほ、本当っすね……」
この場では
話を合わせるのが正解。
所詮、佐野は、西崎の所のチンピラなのだ。
「…はは。まあバレたら社長に怒られますしねー、仕方ないっすよねー」
「…社長も甘やかし過ぎなんだよな…、……ちょっとアレがイイだけのガキによ。………おい、佐野…」
西崎が、佐野を手招きする。佐野は、西崎のデスクの前まで行く。
西崎はデスクの引き出しから何かを出し、佐野にすっと差し出す。
「……メシぐらいなら行けるだろ?イツキと。……コレ、使えや」
「……………さすがにヤバイんじゃないっすか?」
透明な小さな袋には、怪しげな粉薬が入っていた。
「…あー、全然、全然。眠くなるだけだ、跡も残らんし。……どうせ、あいつ、酒飲むだろ?
……その日は少し、酔っ払っちまったって事だよ、良くあるコトだろ?
……どこかに連れ込んでな、……そしたら、……呼べや?、な?」
そう言って、西崎はまた、にやにやと笑うのだった。
2020年10月15日
イツキとダニー・1
イツキはハーバルの仕事でミスをしたようだった。
「あなたがちゃんと言ってくれないからじゃない!」
「………え。……でも……何でもいいからって……」
「でもじゃないでしょ! 大変だったのよ!どう責任を取ってくれるのよ!」
年配の太った夫人は売り場の前でイツキにがなり立てる。
生憎とまだミカのいない時間。イツキはどうしたものかと…、……困る。
太った夫人はつい数時間前に売り場を訪れ、とにかく急いで、
何でも良いから詰めて頂戴。手土産に持って行くの、と
『ハーバル・秋の香りセレクション・バーム・入浴剤セット』を購入したのだが
その中のどれかの香りが、駄目だったらしい。訪問先で袋を開けた途端くしゃみが止まらなくなり
酷い目に遭ったと文句を言いに戻って来たのだ。
「…くしゃみも鼻水も止まらなくて…恥ずかしい…!…何か、変なもの、入ってるんじゃないの!?」
「入ってません!……だいたい、何でも良いからって…お客さんが言ったんですよ………」
「あたくしのせいだって言うの?…商品の説明をするのも、あなたの仕事でしょう!」
「……でも……」
激昂する婦人に、狼狽するイツキ。
接客の、一通りの研修はしていたけれど…、実際、こういった人を前にすると、どう対応して良いのか解らない。
『そんなの知るかよ。話も途中で買い物したのはアンタだろ?』
と、喉まで出かかったのを……とりあえず、呑み込む。
「変な店だと思ったのよ! 新顔でちょっと気になって寄ったけど…、所詮、こんなコが接客してるんでしょ?得体も知れない…! どう責任、取ってくれるのよ!!責任者を呼んで頂戴!!」
「お客様。申し訳ございません。よろしければ私がお話を伺います」
困惑と怒りを通り越し泣きそうになっていたイツキを救ったのは
騒ぎを聞いて駆け付けた、茗荷谷フロアマネージャーだった。
イツキとダニー・2
長身やせ型七三分け、三十代眼鏡男子の茗荷谷は真面目だけが取り柄の男で
制服のえんじ色のジャケットを羽織り、きちんと両手で名刺を差し出し、一礼をすると
……まあ偉いのが出て来たな、という感じで……とりあえず場の空気が変わる。
太った夫人はイツキに捲し立てた同じ話を茗荷谷にもする。
茗荷谷は神妙な面持ちで、ふむふむと話を聞き、ああ…とか、それはそれは…など相槌を入れる。
そして話が終わると「大変ご迷惑をおかけしました」と深く頭を下げた。
「……今は、お身体の加減はいかがですか?症状は治まりましたか?」
「………まあ、今は…平気だけど……」
「ああ、良かったです。こちらの商品は天然素材を使用しているため、敏感な方はアレルギー症状が出ることもあるようです。くしゃみも…肌の痒みも…、大変ですからねぇ。
事前の説明が足りなかったのはこちらのミスです。もちろん、返金対応とさせて頂きます」
「……あら。……そうして貰えるなら…、……助かるけど…」
傍に立つイツキを他所に話は進む。
先ほどまでの権幕が嘘のように夫人の声色は静かになり、驚いたことに笑顔まで浮かべている。
返金の手続きを済ませ、茗荷谷は夫人の帰りを、フロアの端までお見送りする。
「またのご来店をお待ちしております。次回は是非、ご満足いただけるお品をご用意させて頂きます」
「そうね。また来るわ。……あなたもちゃんとしなさいよ!」
「は…、はいっ……あ、ありがとうございました……」
イツキは…、…よく解らないまま深々と頭を下げる。とにかく、茗荷谷が事を収めてくれたようだ。
恐る恐る…茗荷谷の様子を伺うと、茗荷谷も同じように頭を下げていて、やがて、身体を起こし
一仕事終えたという風に、ふうと息をついた。
2020年10月17日
イツキとダニー・3
「お客様のお体を気遣うのが一番です。お客様の立場になって寄り添い
真摯にお話を伺う事。むやみに謝れば良いというものでもありません」
「……はい」
太った夫人が帰った後で、茗荷谷は静かにイツキに注意する。
ハーバルの上司ではないものの、やはり売り場全体の責任者である以上
基本的なことは、守らせなければいけない。
イツキは、大人しく話を聞いているが……どこかで少し、納得行かない様子。
『あのオバサンが勝手に買い物して、勝手に体調悪くしただけじゃん』と、喉の途中まで出かけて…飲み込む。
そんなイツキの心のウチを察してか、茗荷谷は小さく息をつく。
「どんな状況であれ、販売員さんは、商品に責任を持たなければいけませんよ。
ハーバルさんのお品は、良いものなのでしょう? 自信を持って、お勧めしているのでしょう?
ならば最後まできちんと、対応しなければね。
理不尽だからとすぐに癇癪を起こしていては、仕事は務まりませんよ?」
「……はい」
一通り説教を垂れて、茗荷谷はハーバルを離れ、自分の仕事に戻って行った。
イツキは当然、少々、落ち込む。
夫人に怒鳴られた事も、茗荷谷に諭された事も……今までにあまり経験のない事で
改めて……一般のこういった場所で働くというのは…難しくて、怖くて、責任のあるものなのだな…と、思う。
しばらく経って、夕方の時間帯のミカが売り場にやってくる。
イツキはミカの顔を見ると急に泣き出し、ミカを驚かせた。
2020年10月19日
イツキとダニー・4
その日は仕事が終わってからも暫く、ダメージを引き摺っていた。
間違えようのない帰り道を違う方向に歩いてみたり
キッチンでグラスを割り、火にかけた鍋を焦がしてみたり。
『お客さまに怒られるのなんて、結構あるよ。あたしも。
たぷんたぷんのクリーム、お洋服に零した時は、超大変だったよ。
大丈夫だよ。次から気をつければ良いんだよ。ね!』
ミカの言葉が多少慰めにはなったが…こういった仕事は自分には向かないのではないかと…思ってみたり。
「……マサヤだったら、どうする?……ああ、でも、怒られる事なんて、ないか…」
「……くだらん」
ため息ばかりを繰り返す夕食どき。
同じような状況に黒川が出会うこともまず無いだろうが、イツキはつい、聞いてしまう。
「…確かに、こっちも悪いんだけどさ。すごい剣幕でがなり立てられられちゃうと、もう、どうして良いか分かんなくなっちゃうんだよね…」
「ウルサイ。テメェの言い分なぞ知るか。クソババア。と言えばいい」
「………あ、…そう。………参考になります」
少し焦げついたシチューを食べながらイツキは
この話を黒川にするのは意味がなかったな、と思った。
2020年10月20日
イツキとダニー・終
翌日。やや重い足取りでイツキは店に行く。
また昨日のような客が来たらどうしようかと…溜息を一つ付く。
通用門から入りスタッフ詰所へ。ロッカーで制服のジャケットを羽織り表に出ると
茗荷谷がいて、イツキに気付く。
イツキも、ぺこりと頭を下げる。
「…おはようございます。…昨日はありがとうございました…」
イツキの声に元気が無いのを察したか、茗荷谷の表情が少し緩む。
茗荷谷は詰所の奥の事務室に向かう所だったのだが、ちょいちょいと手招きをして、イツキを誘う。
「おはようございます。まだ、昨日の件、気にしていますか?」
「………はい。……ちょっと……」
「はは。良いことです。どうすれば良かったのかと、色々考えることです。そうすれば次は上手く対応できますよ」
話しながら事務所まで来ると、茗荷谷はデスクの引き出しから何かの紙を取り出し、イツキに渡す。
「サービスフロントに『お客様ご意見箱』がありましてね、そこに手紙が入るんです」
そこには『ハーバルで働く若い男の子の対応が丁寧で、とても良かった』と、お褒めの言葉が書かれていた。
イツキはまた、少し、泣きそうになる。
「まあ、こんな声も届いています。ハーバルさん、評判は良いですよ。
あまり気落ちせず、頑張って下さいね。……笑顔でね」
頭を下げて礼を言って、イツキはハーバルの売り場へと向かう。
茗荷谷のお陰で、今日も一日、頑張れる気がした。
2020年10月21日
休日
まだ午前中の早い時間。
真夜中まで仕事だった黒川はベッドの中で、うつらうつらとしていた。
イツキは昨夜も隣りの巣箱で寝ていた。
……クローゼットを改造したイツキの寝床を黒川は巣箱と呼んでいた。
狭く、物がゴチャゴチャと置かれた中にマットレスを敷いた空間は
不思議と居心地の良いものだが……寄せ集めでこさえた鳥の巣のようだと言って笑った。
ガサガサと音がして、その巣箱の、廊下側の扉が開く気配がした。
そしてしばらく経って、今度は寝室の扉が開いて、イツキが中に入って来た。
ベッドに上がり、黒川を少し押し退ける様にして、布団に潜り込む。
「……今、何時だ?石鹸屋はどうした?」
「………10時ぐらいだったかな…。今日は俺、お休みの日」
「…そうか…」
半分寝ぼけているような黒川はイツキを小脇に抱え、そのまままた深い眠りに落ちる。
そうして二人は結局、夕方まで寝入ってしまい
目が覚めて、酷く、驚いていた。
2020年10月23日
食事会・1
「明日は出掛けるぞ。予定を空けておけ。……ホテルで、飯だ」
「…………『仕事』?」
出掛けに、黒川にそう言われ、イツキは不安げな表情を浮かべる。
最近、以前のような『仕事』は殆ど無いとは言え、まるで無い訳ではないのだ。
黒川は、伺うように見上げ視線を揺らせるイツキを見て、ふふ、と笑う。
嫌な事を言って、嫌な気分にさせるのも楽しいのだが…と、子供のような事も考えるのだが
あえて、コトをややこしくして面倒を起こす気もない。
少しは学んだのか。
「違う。…松田だよ。奴とは変な繋がり方をしたが、まあ一度、きちんとした場を設けるか、って話しがあってな。
ホテルの高級中華は趣味じゃないが…向こうのセッティングでな…」
「……松田さん…!………マサヤ、松田さんと、仲良しになったの?」
「仲良しとかいう話しじゃないだろう。ガキかよ。真面目に仕事の話しだ。一応、通さなきゃならん筋もある」
イツキは黒川のジャケットをハンガーから外し、黒川に渡す。
それに黒川は袖を通し、鏡を見て、髪の毛をちょいちょいと直す。
イツキは、黒川の肩に付いていたホコリを指で摘み、…黒川と松田のコトを、思う。
……これ以上親交を深めてどうするんだと……軽く、戸惑う。
「…18時にロビーだ。石鹸屋の後でも間に合うだろう?俺は明日まで戻れないから、直接向かう。
……きちんとした格好で来いよ。じゃあな」
そう言って黒川は、バタンと音を立てて、部屋から出て行った。
2020年10月25日
食事会・2
「ね、ね、イツキくん。今日ね、仕事終わったらユウちゃんとカラオケに行くんだけど
一緒に行かない? あたし達、20時までだから、ちょっと待ってて貰わなきゃなんだけど…」
もうじき上がる時間のイツキがミカに作業の引き継ぎをしていると
ミカは、それよりも大事な話しがあると、イツキをカラオケに誘った。
けれど、この日は、黒川と約束がある。
「ごめんなさい。今日はこの後、用事があるんです」
「そっかー。残念。ユウちゃん、イツキくんと遊びたがってたんだけど…」
「また今度、誘って下さいね」
そう言ってイツキはニコリと笑う。
世間一般の社交辞令も、言えるようになったらしい。
そうして、定時で仕事を終え、イツキはスタッフ詰所に戻り、制服のジャケットを脱ぐ。
替わりに羽織ったのは、いつもの『仕事』の黒スーツだった。
ロッカーの小さな鏡を見て、ネクタイを締め直す。
同じ、制服でも、ずいぶん様子も気分も違うと、イツキ自身、思っていた。
支度を終えスタッフ詰所を出ると、廊下で茗荷谷とすれ違った。
イツキは普段通り「お先に失礼します」と頭を下げ、通り過ぎる。
茗荷谷も「お疲れさまです」と言って、通り過ぎ……けれど、少し行った所で足を止める。
何か違和感を覚えたのだが、それが、黒いスーツのせいだと気付くまでに
そう時間は掛からなかった。