2021年01月05日
腕時計
「……あ、イツキくん。時計、替えた?」
ミカにそう言われて、イツキは咄嗟に左腕の時計を隠した。
少し、困ったような顔。ミカは「ん?」と思い、イツキも「…ん」とお互い、見合わせる。
「…いや、あの。……貰ったんですけど…、ちょっと…、地味かなって……」
「ええー?そんな事ないデショ? 見せて見せて」
おずおずと差し出すイツキの腕には、上品な時計が巻かれていた。
革のベルト。金のケースにシンプルな文字盤。
確かに、イツキの年頃が使うには質素なデザインだったが
質の良いものだという事は、雰囲気で解る。
この時計は、夕べ、ふいに、黒川がイツキに寄越したのものだった。
遅れた誕生日のプレゼントのつもりか、ただの、思いつきか。
『……事務所の引き出しから出て来た…、使ってなかったやつだ。やるよ』
そう言って、スーツのポケットから無造作に取り出し、まるで飴玉でも配る様にイツキに渡したのだ。
「……なんか、オジサン臭くないですか?」
「あはは。落ち着いたカンジだよね。でも、似合うと思うよ、こう、しっとりした感じで…。どこの時計かな?、えーと……パテック……」
ミカは時計を覗き込み、小さな字のブランド名を見る。
それは高級過ぎてミカには馴染みのない、それでも、お高いという事だけは知っているブランドだった。
「……あー………、イツキくん。これ、めちゃくちゃ良いやつだよ。スゴイよ、多分」
「……ええ?……そうですか…?………んー、前のドンキで買ったのも、好きだったんですけどね……」
イツキは腕時計を眺め、まあ、コレでもいいか…という風に、こくこくと軽く頷いていた。
ミカは、ただただ、驚くばかり。
2021年01月07日
男子会・1
イツキは少々緊張していた。
上司の、……いや、直接の上司ではないが、仕事場のフロアの責任者なのだから上司と言えるか……、マネージャーの茗荷谷に呼び出されていた。
百貨店の近くの、茗荷谷の行きつけの居酒屋。
ガヤガヤと賑やかな店内の奥の席で、二人きりで向かい合う。
「ああ、別に。そんなに構えなくても…。はは…。ほら、あの売り場って男子が少ないでしょ。何か悩みとかストレスとか…、話したい事とか…、ああ、ビールで良かったかな?……ん?……未成年だったっけ…」
何故か、呼び出した茗荷谷も緊張しているようだ。
メニューをパラパラ捲り、眼鏡のフレームを触り、イツキの顔を見ることもない。
「……えっと。ビールで。……俺、先月、ハタチになったんで」
「先月!……じゃあ、最初の飲み会は、未成年だったんだ?……駄目じゃないか!」
少し強めの語気。まあ、責任者としては当然の対応だろう。茗荷谷はキッと睨みイツキを戒めると
イツキはふふふと柔らかく笑って、「……でも、もう、平気です」と肩を窄めてみせた。
「………困ってることは…あります。女子、強すぎます。
詰所の自動販売機の前で煙草吸ってるお姉さま方がいて、近寄れなくて、困っています」
時間が経つと、イツキも茗荷谷も緊張が解け、酒を飲みながら何の事もない話をし始める。
もともと、イツキの、茗荷谷に対する印象は悪くない。
気難しそうな面はあるが、真面目に、いつも仕事場の事をきちんと考えてくれていると感じていた。
今日のこの誘いも、その延長線上だと思っていた。
「ああ、それは「ジュエリー・タナカ」の社員ですね。何度か注意しているのですけど…。……まあ、ちょっと、…怖いですよね……」
苦笑いを浮かべながら茗荷谷がそう言う。イツキは「………でしょ?」と言う風に、笑う。
もっとも、茗荷谷は、こんな話をしたくてイツキを呼び出した訳ではない。
2021年01月08日
男子会・2
やがて、当たり障りの無い普通の会話は尽き
酒のグラスも空になり、丁度良いお開きの時間。
「……あー、…岡部くん、……最後に甘いもの、食べるかな?」
「いえ。もうお腹一杯です。………俺、そろそろ……」
「ああ、うん。そうだよね。……今日は、付き合ってくれてありがとう」
「こちらこそ、ありがとうございます。マネージャーと色んな話が出来て、俺、楽しかったです」
すでに腰を上げているイツキを引き留めるだけのスキルを茗荷谷が持ち合わせている筈もなく。
辛うじて、テーブルの上の伝票を持ち「……今日は私が払うよ」と会計に向かう。
イツキは、茗荷谷は何と親切な男なのだろうと、感心する。
そして、腕に光る新しい時計を覗きこみ、部屋に帰るのは何時ぐらいかなと計算する。
「……じゃあ、お疲れ様でした。岡部くん」
「はい。お疲れさまです……」
店の外で茗荷谷とイツキは言葉を交わし、頭を下げるも……、何か、妙な間が空いてしまう。
この時になって初めてイツキは、茗荷谷が何か言いたい事があるのではないかと、気付く。
茗荷谷は眼鏡を触り、少し視線を外して、またイツキに向き合い、もぞもぞと俯く。
「……いや。実は…、暮れに…、キミが泣きながら退店するのを見掛けてね。……それで、その、……何かあったのかなと…、…気になっていたんだが……。
仕事関係とは違うのかな。……まあ、問題が無ければ良いのだけど。……ちょっと気になっていたんだよ」
「………え?…………ああ!」
それは数週間前の、イツキの誕生日の日の事。
黒川に『仕事』を命じられ涙と鼻水を啜るイツキを、茗荷谷は、ずっと気に掛けていたのだ。
2021年01月11日
男子会・3
「…あれは…ちょっと……、嫌な事を言われて……」
「嫌な事?……かっ…彼女と喧嘩とか…?」
「彼女なんていないです!……あの、えっと……家の人…っていうか……」
不意の電話で男に抱かれに行くことになった状況を、どう説明すれば良いものかイツキは困る。
もちろん、正直に話す必要などないのだけど、真面目に心配をしてくれる茗荷谷に対して
つい、イツキも、真面目に応えてしまう。
その、困る様子が
さらに茗荷谷の心配を煽る。
「……家の人?……本当に?……。岡部くん、…前に岡部くんが店の裏から、車に乗って行くのを見たよ。
……ちょっと、怖い感じの男と一緒に……。
大丈夫かな?……何か問題に、巻き込まれてるんじゃないのかな……」
茗荷谷がぐっと身を乗り出す。
少し距離感を間違えたか、いやに顔が近づいてしまう。
ハタから見れば、まるで壁側に押し付けて、告白でもしているような勢い。
イツキは、さらに困る。
曖昧な、下手な誤魔化しなどしても、この男は自分が納得いくまで追求をして来そうだと思った。
とりあえず、ひとつ、息をついて
ニコリと、綺麗に笑う。
「…大丈夫です。…ご心配掛けて…すみません。
俺、…家…で…ちょっと仕事を手伝ってるんです。電話は、その話です。
車は……、前に迎えに来て貰った時かな。
家の人、怖い感じがして…アレなんですけど。……大丈夫です、本当に」
そう言って、イツキは、もう一度微笑んで
ぺこりと頭を下げて、その場から立ち去るのだった。
2021年01月12日
男子会・4
これ以上の茗荷谷の追及から逃げる様に
イツキは小走りでその場から離れ、大通りに出ると、すぐにタクシーを拾う。
少し酔いが回っていたが、大丈夫。マンションの場所をちゃんと告げると
やっと一息という風に、シートにゆっくりと身体を預けた。
「……マネージャー…、なんであんなに…、俺のこと心配するんだろう。
………俺がふわふわ危なっかしくて、何か大失敗するんじゃないかと…思ってるのかな。
……まあ、確かに……、解るけど………。問題起こしたら…、店の問題になっちゃうもんね……」
やけに自分を気遣う茗荷谷を、イツキは不思議に思っていたが、あくまでそれは業務上のことで
……性的な感情があるなどとは…、……露ほども思わず。
自分が、ある種の男を惑わせる何かを垂れ流しているとは、知っているが
まさか、茗荷谷の様な男がそれに引っ掛かるとは、思ってもいなかった。
さて。
イツキと居酒屋の前で別れた茗荷谷はその数分後
また、同じ店に逆戻りしていた。
丁度、仕事終わりの、関が、居酒屋に立ち寄り
店先でバッタリ、出くわしたのだ。
しかも、関は
茗荷谷とイツキが二人で立ち話をしているのを見掛けていた。
「……マネージャー。……あの子に壁ドン、してましたよね?」
まだ飲み始めてもいない関が、据わった目で、そう尋ねて来た。
2021年01月13日
男子会・5
「とりあえずビールで……、ああ、いや、日本酒。冷で。おちょこ二つ。
……何、話してたんですか?マネージャー。……まさか、口説いてたんですか?」
少し店が混んで来たのか、今度は2名掛けの小さな席。
その分、向かい合わせの、顔が近い気がする。
関は注文もそこそこ、すぐに茗荷谷に詰め寄り
途中運ばれて来た日本酒をぐっと一気に煽ると、さらに、顔を近づけた。
「………マネージャー?」
「関くん。……何の話しですか?……岡部くんとは、ただの世間話ですよ…」
「だって、すげー、顔、近かったじゃないっすか!……俺、最初、キスしてんのかと思って…!」
思わず、大きな声が出てしまい、関は自分でも驚いていた。
まあ、それ以上に驚いたのは茗荷谷だったが。
口説くだの、接吻だの、それはまるで好意のある異性に対してする事ではないのか。
「……関くん。……岡部くんは…男の子ですよ?……はは」
「…ははは。……まあ、そうっすよね。……いや、だから、何、してたんだろうなーって…」
「別に、普通に、仕事の話とか。……困っている事はないですか、とか、その程度ですよ」
茗荷谷も関も、ははは、と笑う振りをして、なんとなくやり過ごす。
お互い、何がそんなに気になり、気に障るのか……まだ、解ってはいない様子。
関は自分を落ち着かせるために、ふうと大きく息を付き
今度は静かに、酒を飲む。茗荷谷の御猪口にも、酒を注ぐ。
「…それで、何か、困ってるコト、ありました? 仕事でヘマでもしてました?」
「……ああ、いや。…………いや、何も………ないよ」
茗荷谷も、酒を飲む。
茗荷谷は嘘を付くのが下手だなと、関は思った。
2021年01月15日
男子会・6
先ほどまではイツキが、茗荷谷の追求を受けていたが
今度は茗荷谷が、関の、質問攻めにあっていた。
ひょんな事でイツキを知った関だが、その実、イツキの事情や状況などはほとんど知らないのだ。
この機会にと、茗荷谷に詰め寄る。茗荷谷の御猪口に、酒を注ぎ続ける。
「……えっ、ハタチですか。……俺、もっと若いかと思ってました」
「幼く見えるよね。……ああ、でも、お酒は飲んじゃってたな。いかんいかん!」
「ハーバルって…本社は群馬でしたっけ。……向こう出身で、こっちに手伝いに来てるんですかね」
「いや。家は都内のようだけど。…何でハーバルに勤めているのかは、知らないねぇ…」
関の尋ね方が良いのか、この日の酒が美味いのか、それとも、茗荷谷が喋りたい気分なのか。
いつまで経っても減らない手元の酒を、くっと煽り、ついポロリとイツキの情報を洩らす。
「………家でも、何か、仕事を手伝っていると言っていたが…、どうなんだろうね。怒られて泣いているのを見掛けた事もあるよ。
いやに良い身なりをしている時もあるし。……今日も腕時計が…多分、良いものだったよ。
…ちょっと、不思議な子だよね……」
「採用の時に詳しく聞いたりしないんですか?」
「採用は、ハーバルさんだからね。私はそこまで聞けないよ。…直接は関係がない」
「関係が無い割には、ずい分、気に掛けてるんじゃないですか? 俺だってマネージャーと飲みに行くようになったの、入って2,3年経った頃でしたよ。
いいなあ、大事にされてるなぁ。愛されてんなぁ」
冗談めかして、関がそう言って笑う。
茗荷谷もつられて笑い、「……確かに」と呟いた。
2021年01月16日
男子会・最終話
翌朝。
茗荷谷は若干、二日酔いの頭で
何をするにも精彩を欠き、動作は鈍く、周囲の者をハラハラさせた。
酒に、強いほど強くも無いが
性格的に、潰れるまで飲んでしまうタイプでもない。
一体、誰と酒を飲み、こんな状態になったのかと
女子社員の、格好のウワサ話の種になった。
「おはようございます。マネージャー。……昨日はありがとうございました」
「………ああ。岡部くん。……オハヨ」
「ん?……マネージャー、……調子、悪そうですか?…そんなに飲まれては、無かったですよね…」
「はは。あの後、知り合いとちょっと飲み直しちゃってね。…いや、大丈夫…」
ハーバルの店舗の前で、茗荷谷はイツキと軽く立ち話をする。
相変わらず、綺麗な笑顔。白い首筋が目について、慌てて茗荷谷は視線を逸らせる。
「それでは、また」と店内を巡回する振りで、ハーバルの前を離れる。
少し眩暈がするのは、おそらくまだ、酒が残っているからだろうと思った。
昨夜。泥酔して曖昧な記憶の中。
関の言葉だけが鮮明に、思い出される。
『……マネージャー。俺…、………あいつのコト、……好きかも知れないっす。いや、男って解ってますよ。
解ってるからこそ、ちょっと……、…試してみたいっつーか…
……こう、……その、……シたらどうなんだろうって……、………気になりませんか?
ああ、ヤベェ。……俺、欲求不満か?………でも、そう思いません?………あの、首筋とか…!』
そして、それを一瞬でも考えてしまった自分に
茗荷谷は酷く、驚いていた。
2021年01月18日
心の声
イツキの巣箱に新しいベッドが届いた。
ベッドと言ってもマットレスだけだったが、寝心地は十分。
年末に…少々汚して以来、巣箱は使えなくなっていたが
その間に部屋も片付け、まあまあ、良い空間が出来上がった。
『…俺が夜中に帰ると、お前がベッドのど真ん中で寝ていて、邪魔だ。
朝も俺より早く起きるから、途中で起こされる。……まったく』
寝室のベッドで二人で寝ている時には、黒川は散々そう言って、ふんと鼻息を鳴らしていた。
イツキが巣箱に戻ると、『これでゆっくり寝られるな』と言って、笑った。
「イツキ」
2、3日経って、口を開いたのは黒川の方だった。
「お前が横に寝ていないと、…寒いな」
「……何、俺。……寒さ避け?」
「まあな」
それだけ言うと黒川はコーヒーを飲み、新聞を捲る。
イツキは、……では、新しいストーブか、布団に湯たんぽでも入れてやろうかと思う。
これで、この夜、イツキが黒川のベッドに入れば
『…なんだ、ヤリたくなったのか?』等と言われるに違いない。
「……ん、何か言ったか?イツキ」
「ううん。何も」
イツキは心の中でつぶやいた 『面倒臭いオトコ!』 が聞こえてしまったのかと
一瞬、ドキリとした。
2021年01月19日
自己紹介
開店前。
ハーバルの売り場でイツキが一人、準備をしていると
若い男が荷物を積んだカートを押してやってきた。
普通の納品作業だろうと、イツキが荷物を受け取ると
男は、イツキの顔をマジマジと眺めニコリと笑う。
「岡部くん、オハヨ。この荷物、間違えて3階に行ってて、見つけるの苦労したよ。ハハ。
持っていくモンはない? 宅急便なら16時までね」
「………あ。……ハイ…」
やけに親しげに話しかけられ、知り合いだったろうかと、イツキは記憶の底をさらってみるが…思い出せず。
きょとんとした顔をしていたのだろう、男はそれを見て、さらに楽しそうに笑った。
関は
茗荷谷と酒を飲んだ後
よくよく、考えた。
好きも嫌いも、セックスしたいも……、とりあえずもう少し、親しくなってからだ。
自分は意識して接しているが、向こうからすれば、名前も知らない男なのだ。
そうと決めると、関は、積極的だった。
意外と押しの強い、物怖じしないタイプのようだ。
「……俺、ホラ、この前。……バックヤードで荷物にハマってた時の……覚えてない?」
「…………え。………あ!」
「関、ね。関コージ。配送課ね。結構、受け渡しで、顔合わせてるんだけどな」
「あ。……そうでしたか……はい」
そうやって、先ずは無理矢理
関は自分の名前をイツキに覚えさせたのだった。
2021年01月21日
女子トーク
「ミカさん。……関さんって知ってます?……配送課の」
昼過ぎにミカが出社する。
仕事の引継ぎより何よりまず、大事な話。
「納品の荷物、持って来てくれたり、伝票作ってくれる人なんですけど……」
「知ってるよー。ココの社員さんだよね。関浩二28歳。半年前まで下の食品館のナナさんと付き合ってた人でしょ。別れた理由は知らないけど。
…地元では結構ヤンチャだったみたいだから、その辺が合わなかったのかな、なんて思うけどね。ほら、ナナさんってすごいおしとやかタイプでしょ。お花、やってるんだって。
でも、関さん、人は良いと思うんだよね。優しいっぽいし。ユウちゃんが、倉庫の片付け手伝って貰ったって言ってた。
ビニールハウス農家の次男坊なんだって。ああ、でもでも、あたしは無理だけどー」
ミカは、新しく入った商品を棚に並べながら関の話をし、自分はタイプでは無いと、ふふふと笑う。
イツキは、思っていた以上の情報に、驚く。
「それで?その関さんが、どうかしたの?」
「……あ、いえ。今日、ちょっと話をして…、どんな人なのかなって。
……なんか、友達みたいな感じで…グイグイ来て……、今度飲みに行こうって誘われて……なんだろうって……」
「……それは、イツキくん………」
ミカは、空いた手で口元を押さえ
『イツキくんに気があるのかもよ?』
と、言わんばかりに、大袈裟に目を見開く。
イツキにも、その雰囲気が伝わる。
「……飲みに行くとしたらミカさん、一緒に来て下さいね」
「えええ、どうしよっかなー。もう一人、誰か、誘わない?……ふふふ」
この日は一日。
そんな女子トークばかりで
まるで仕事にはならなかった。
2021年01月22日
少し
少し
人肌恋しい夜がある。
今の生活に不満がある訳じゃない。
以前の、「仕事」ばかりの、酷いセックスばかりの日々に
戻りたい訳じゃない。
寒い夜は、人肌が恋しい。
ついでに……カラダの奥が熱く爛れるようなセックスがしたい、なんて
…思うのは、まあ、……そんな年頃のせいという事にしておく。
「……………あ」
うっかり。
本当に、うっかり。そんなモードに入る。
ハーバルの仕事の帰り、繁華街の賑わいを通り過ぎる時とか
まだ混み合っている電車に乗り、隣の男と、肩が当たった時とか。
見上げて、視線を絡めて、そのままどこかに誘われて…なんて
期待はしないけど、そうなったら…どうしよう…なんて、無駄な事を考える。
考えて、勝手にその気になって、余計にカラダを熱くする。馬鹿。
知っているけど
それは、もう
染み付いた、習性のようなものだと思う。
何事も、問題を起こさず、……マンションの部屋に帰る。
すぐに風呂場に行き、熱いシャワーで、諸々流す。
この気持ちをマサヤに、気付かれる、前に。
2021年01月24日
黒一ノ宮
一ノ宮は事務所の片付け中。
最初は必要な書類を探すためだったが、その用事が済むと
ついでとばかり棚の奥に積み重なった封筒を片付け始めた。
その中に
昔、イツキが撮られた、酷い映像のディスクが入っていて
一ノ宮は手を止める。
この映像自体は、ちょっとした手違いと言うか、まあ、黒川の同意を得ずに撮られたものだった。
すぐに企画した男を処分し、映像自体も概ね回収はしたのだが
この手のものは、完全に消すことは難しい。
複製の複製が出回ったり、断片的な画像だけが、怪しげな場所に貼られていたり
確認は取れていないが、あちこちに、残っているのだろう。
幸い、モデルの少年の身元や、詳しい情報は知られていない。
映る顔も泣き顔ばかり。
しかも、多少は成長し、様子も変わって来ている。
けれど
一部では、やはり
それが、黒川の所有する「イツキ」で
金や、条件次第では、今でも遊ぶ事が出来るのだと
話が、出回っていた。
隠せば隠すほどその価値は増すものだろう。
「……プレミア付き。……商品としては最高なのですけどね。
望んでいない以上どうしようもない。……それとも
値を吊り上げて……ここ一番に使うつもりなのか……」
珍しく一ノ宮は意地の悪い笑みを浮かべて
ディスクを封筒にしまい、また、棚の奥に戻すのだった。
2021年01月25日
黒一ノ宮・2
別に一ノ宮は、イツキを嫌いな訳ではない。
あんな境遇に置かれていながら、素直で健気。
時には仇となる優しい心根も、大したものだなぁとある意味感心していた。
けれど…実のところ
一ノ宮には他者を、好きか嫌いかで判断する感覚が…あまり無い。
自分と黒川にとって、有益か、そうでないか。
それだけの、シンプルなものだった。
急にイツキに「仕事」が入ったらしい。
真夜中を過ぎて、黒川と、まだ何かが残っているのか…ぼんやりとした様子のイツキが帰って来た。
一ノ宮は熱いお茶を淹れ、イツキと黒川に出す。
イツキは一ノ宮を見上げ、にこりと笑い、「……ありがとうございます」と言う。
黒川は不機嫌そうに煙草を吹かす。
「……ふん。はりきり過ぎだ。馬鹿が。…オプションは別料金を取らんと、割に合わないな…」
客と、イツキに向けてか、そんな悪態ばかりを付く。
最近は、自分のオモチャを他人に貸すのが、気に入らないらしい。
「……大丈夫ですか、イツキくん。……頬に少し、青なじみが出来ていますね、冷やした方がいい。
吐き気は無いですか?……ああ、シャツのボタンは…、同じものがありますよ。後で付けてあげましょう」
一ノ宮はそうイツキに声を掛ける。優しいその気遣いは、本心からのものだった。
余程疲れていたのか、やがて、イツキはソファでうとうとと、眠ってしまう。
一ノ宮はイツキの肩に毛布を掛け、そして、黒川に少々キツイ視線を向ける。
「『仕事』も結構ですが、もう少しイツキくんを大切にしないと駄目ですよ、雅也」
「………しているだろう。十分だ。お釣りが出る」
「愛想尽かされて、離れてしまって……困るのは、あなたですよ?」
そんな小言を言うのは半分は、イツキと黒川の事を想っての親心のようなものだったが
あとの半分は
黒川の、ふてくされた表情を見たいためだった。
2021年01月26日
黒一ノ宮・3
都内某所。
隠れ家的な、静かなレストラン。
扉を開け、女性をエスコートする一ノ宮。
女性はコートをクロークに預け、店内の雰囲気に息を飲む。
「…すみません、こんな場所で。……もっと気軽な店にすれば良かったかな…」
「あ、いえ。……ふふ、なんだか緊張しちゃいますね…」
一ノ宮と待ち合わせ、この店にやって来たユウは
ハーバルと同じフロアにあるショップの店員。ミカの友達。
以前、ちょっとした機会に一ノ宮を見掛け、どうにか知り合いになれないかと
駄目で元々。ミカからイツキを伝い、連絡先を書いたメモを渡していたのだ。
返信を貰えただけでも上出来だったが
食事に誘われた時には、密かに、ガッツポーズをし天を仰いだ。
ここ一番の勝負服を着て、挑んだのが正解だったと
慣れた様子でワインリストを眺める一ノ宮を見て、しみじみ思う。
「…東京駅の時は驚かれたでしょう?……バタバタしてしまって…。
ほら、イツキくんは、結構ぼんやりしている子でしょう?
うっかり誘拐されるのではないかと、私も黒川も慌てましてね…。
まあ、ただの、迷子だったのですが…」
軽く笑いながら一ノ宮がそう言うので、ユウも、軽く笑いながら話を聞く。
実の所、それが真実なのだけど、まるで冗談のように
甘くて深い赤ワインと一緒にするりと流れてしまう。
「…黒川さんって方は、イツキくんのお父様なんですか?」
「お父上の、……友人でした。イツキくんのお父さんは亡くなりましてね………」
そう言って一ノ宮が静かに目を伏せてしまえば、
ユウはもう、この話を続ける事が出来なくなる。