2021年05月02日
苦笑
松田がイツキと会ったのは二日前の事だった。
それ以前にもいやに身体の緩い、もとい、少しナーバスな様子が気にはなっていた。
「ご飯でも食べようか?」と誘えば簡単に応じ
行った先がホテルの部屋でも、特にゴネる事もなく。
『……イツキちゃん、何かあった?最近、……違うね』
『…そうですか?…まあ、なんとなく。…流れに逆らうのに、疲れちゃったのかな』
『疲れちゃったかぁ…。ああ、風呂でも行きたいね、ほら…』
『湯〜らんど極楽!…懐かしい。…行きたいですね…』
松田の腕の中でイツキは身体の向きを変え、少し伸びをする。
動かした足が松田の足を擦るのはわざとなのか。
淡いスタンドの灯りに浮かぶ白い素肌が艶めかしい。
『…向こうで、一人で暮らしてたのも…今思うと、楽しかったな。
…いつか迎えに来てくれるって、ずっと思っていられるのって、良かった…』
『俺、もうじき戻るんだよね。……イツキちゃん、一緒に来ちゃうか?』
松田がそう言うとイツキは返事の代わりにニコリと笑って
もう一度、松田の腕の中に、潜り込んだのだ。
「……松田さん」
松田が黒川の事務所を出て少し感傷に浸っていると
後ろから追いかけて来た一ノ宮が声を掛けてきた。
顔を見合わせると何故か二人とも
わからずやのあの男に困ってか、苦笑を浮かべた。
2021年05月05日
立ち話
「すみません、松田さん。わざわざご足労頂いたのに……」
「…まあ、素直に話しを聞く人じゃないとは思ったけどさ。…あんたも大変だな、一ノ宮さん」
松田と一ノ宮は事務所の階段の下で立ち話。
松田は呆れたように笑い、一ノ宮は困った風に笑う。
「なんか、イツキちゃんの事になると、ちょっとタガが外れるよな、あの人。
……そんだけ、ホレてるって事なんだろう?」
「……まあ、……そういう事なのでしょうねぇ…。あれでも多少は、気に掛けてはいると思うのですけど……」
「………ふぅん?」
松田はふと顔を上げ、二階の事務所の辺りを見る。
本当に、黒川がイツキの事をきちんと考え対応してくれれば良いなと思う。
そしてその気遣いが、一ノ宮には少し不思議だった。
「松田さん」
「ん?」
「松田さんこそ、イツキくんを気に入っていらっしゃるのでしょう? ならばいっそ、この機会に…、仰るように、イツキくんを連れて地元に帰るとか……、されないのですか?」
「ハハハ。そんな事したら、黒川さんがブチ切れて追っかけて来るんだろう?」
そう言って松田は笑う。
確かにそうだ。それは、火を見るより明らかなことだ。
「俺はさ、イツキちゃんが好きだけど、黒川さんも好きなんだよね。
…あー。変なアレじゃなくてだぜ?
あの二人が好きってゆーか、オモシロイってゆーか、気になるってゆーか……」
2021年05月10日
不機嫌な黒川
「…とにかく、あの二人はくっついて貰ってなきゃ駄目なんだよね。
そうじゃないと、安心してチョッカイも出せない」
そう言って松田は笑った。
後は少し事務的な話しをして、今度一度、飲みに行きましょうと約束して
一ノ宮は松田と別れ、事務所に戻る。
事務所では黒川が不機嫌そうな顔でソファーに座り、ビールを飲んでいた。
一ノ宮の顔を見ると、何を話して来たんだか、と勘ぐり、ふんと鼻息をつく。
「…社長。もう、今日の作業は止めにしますか?…そう、急ぎのものでもありませんし…」
「……ああ」
「…では、私はこれで失礼させて頂こうかな…」
あえてイツキの話しを振らない一ノ宮に、黒川はさらに不機嫌になる。
もっとも一ノ宮は、わざと、そうしている。
少しは、考えれば良いのだ。
松田は、実にいい、キッカケを作ってくれたと思う。
自分が多少小言を言ったところで、黒川はさほど緊張感は持たない。
一ノ宮は松田のように
黒川とイツキが、二人、一緒にいるのが好きな訳ではない。
好き、嫌いと、そういう感覚では無いのだが
ただキッチリと仕事をこなす黒川を、自分の相方と認めているのだ。
そして黒川が、まともでいるために、イツキが必要なのだと言うなら
それならば、二人、一緒にいて貰わなければ困る。
2021年05月11日
上機嫌なイツキ
「……くだらん。……イツキごときの様子を伺いやがって…。
………どうでもいいことだ。……そもそも、他人には関係が無い……」
黒川がふんと鼻息を付き、愚痴を零した頃には
とうに一ノ宮も作業を終え、事務所を出て行った後だった。
『イツキを気遣え』とは、よく一ノ宮に言われていたが
それを、ほぼ部外者の松田にまで言われては面白いはずも無かった。
『………そうですね。確かに、最近のイツキくんは少し…ナーバスになっているようですね
あなたのものだと仰るのでしたら、きちんと、…心も身体も、ケアしないといけませんね』
一ノ宮の言葉も、気に入らない。
イツキの事は、ココロもカラダも、自分が一番に解っている筈だと
この時はまだ本気で、黒川は思っていた。
「……ああ、おかえりなさい、マサヤ。ふふ。なんか、テレビ見てたら寝そびれちゃった…」
黒川がマンションの部屋に戻ったのは夜中の一時を過ぎた頃だったが
まだ起きていたイツキはリビングのソファに座り、テレビ見ながら、酒を飲んでいた。
「……珍しいな。……白ワインか?」
「ん。甘いの。……マサヤも、飲む?」
「そうだな。貰うか…」
黒川はネクタイを解き、ソファの、イツキの隣りに座る。
イツキは不思議とにこにこと笑い、ボードから空のグラスを取り、黒川にワインを注ぐ。
けれどそれは、グラスの半分ほどにしかならなかった。
……すでにイツキが、それだけ飲んでしまっていたのだった。
イツキは、機嫌が良い訳ではない。
ただの、酔っ払いだった。
2021年05月12日
深淵・1
「………飲み過ぎだ」
深夜1時。リビングに二人。
黒川はイツキが注いだグラス半分ほどのワインを一気に飲み干し
当然、それでは足りずに、ボードから日本酒のボトルを取って来る。
そして、イツキまで、空のグラスを持って、ご相伴に預かろうとしている。
「…ちょっとだけ。ちょっとだけだよ。……あのワイン、軽かったでしょ?
10度ぐらいだと思うんだよね…」
それでもほぼ一本飲めば十分だろうと黒川は呆れながらも
イツキのグラスにも日本酒を注いでやる。
改めて、何の始まりかは知らないが、二人グラスをカチンと合わせる。
常温で美味しい深めの酒。香りが鼻に抜ける。
へべれけになってしまっては
したい、話しも、出来なくなるが
少しくらいは回っていないと
出来ない話も、ある。
「……あ。この曲…、……なんかの映画の……、曲……」
イツキはソファに膝を抱えて座り、テレビから流れる音楽に耳を傾ける。
一見、静かで穏やかな時間。
このまま後はセックスをして、今日は終わってしまおうかとも、思う。
「……さっき、事務所に、松田が来たぞ」
とりあえず黒川は、小石を一つ投げ入れてみる。
2021年05月13日
深淵・2
最初はとりあえず軽く。男の名を出せば何か様子が変わるのか。
変わったところでその先、何を聞き出したいのか、黒川本人にも解っていないが。
イツキは酒のグラスに口をつけたまま、こちらも軽く、「ふーん」と
テレビから一瞬視線を寄越し、気の抜けた返事をする。
それで、何?と言う風に小さく首を傾げる。
とぼけているのか、やましさの微塵も感じていないのか。
「……お前、あいつとヤリまくってるようだな…」
「ヤリまくってないよ。2、3回かな…。ご飯、誘ってくれるから……」
「なんだ、……惚れたか? ……あいつの地元に一緒に帰る気か?」
黒川はいつもの調子で、半分馬鹿にしたような口調で、イツキの出方を探る。
煽る様に質問してしまうのは、黒川の癖で、今更どうしようもない。
言葉と、暴力で、イツキをコントロールし、傍に居続けることを以外の選択肢を無くす。
今までずっとそうして来たのだ。他のやり方は、知らない。
「あはは。松田さん、そんな事言ってた?……まあね、それも良いかもねって話しだよ。
……仕事も、何も、まわり全部、忘れて……、のんびりお風呂に行きたいねって話……
……もし、俺が本当にそうしたら、マサヤ、どうする?」
イツキはそう言ってニコリと笑い、逆に、黒川に質問を返してくる。
何か、違う。力加減のようなものが噛み合わない。
イツキは目の前にいるのに、どこか…遠くにいるようで、黒川は少し戸惑う。
2021年05月14日
深淵・3
『勝手にすればいいだろう』
と、黒川は言いかけて、口を噤む。
いつもなら確かにそう言っていた。けれど、今は何故か
そう突き放してしまうと、本当に勝手にされてしまうのではないかという
危惧があった。
黒川は手元の日本酒を、くっと煽る。
イツキ相手に言葉を選ぶなどと、あまり無いことだった。
それでも急に、優しい言葉をかけてやることなど、出来ない。
意地なのかプライドなのか、単に、経験不足なのか。
「……馬鹿を言え。……くだらん…」
「………ふふふ。……ちょっと思っただけだよ…」
イツキの方は軽く笑い、黒川には何の期待もしていないという風で
黒川と自分のグラスに、酒を注ぎだす。
立ち上がり、キッチンに向かい、冷蔵庫から小さなチョコを取って来る。
「…ポカリ、切らしちゃったな…。絶対、喉…乾く……」などと言いながら
また普通に、黒川の隣りに座る。
「……マサヤは?……最近、何か、ないの?」
「………ない。仕事で忙しい」
「………ふぅん?」
イツキはチョコの包みを解き、一粒、口に放る。
黒川を横目でちらりと伺う。
その表情が少し気に障る。
腹を立て、意地の悪い事を言うなどまるで子供じみていると
黒川にも解っているのだが
それを言えばイツキが、困り、自分に泣きつくのではないかと
そんな期待もあった。
「お前、男と遊ぶヒマがあるなら、俺の仕事を手伝えよ。
……ヤル事は一緒だろう」
2021年05月15日
深淵・4
「俺の仕事を手伝えよ。……週末、平塚会長が来る。
…スカトロ好きなじーさんだよ。……お前、嫌いだったよな、暫く腹が痛くなる…って。
会食後は適当に誤魔化すつもりだったが……お前が来るなら話が早い。
…どこかいい旅館でも取ってやるよ、露天風呂でもある所。…風呂に入れて丁度いいだろう」
黒川が言う男は、イツキも何度か抱かれた事があるが少々、趣味が悪く
イツキの嫌いな男の一人だった。
その仕事の後はイツキは酷く衰弱する。当然黒川も、そう良い客だとは思っていない。
ここ暫くは相手をさせていなかったし、この先も、させる気はない。
そんな男に抱かれて来い、と言えば……イツキは、おそらく、嫌な顔をみせる。
唇をとがらせ、首を横に振り、どうしてそんな意地悪ばかり言うのか、と
黒川を責める。
後は、少し気落ちするイツキをベッドで優しく宥めてやれば、それで終わりだ。十分だ。
そう黒川は思っていたが
「いいよ。何時?」
イツキの、軽い返事に驚く。
「…………20時に…、築地の料亭で……」
「解った。俺、仕事があるから、直接行くね」
黒川は、イツキの横顔をまじまじと眺める。
イツキはそんな事よりも、テレビの番組の合間に流れた、健康食品のコマーシャルが気になる様だった。
いや。本当は、何も……気にはしていないのだろう。
「……イツキ。……何だ? ………嫌がるだろう、いつもは……」
「うん。でも、いいよ。……マサヤ、その方が、いいんでしょ?」
一瞬黒川に視線をやり、ふふと笑い、またテレビに目を向け、飲みかけていた酒を飲む。
2021年05月17日
深淵・5
松田が言うには、最近のイツキはオカシイと。
ココロもカラダもバランスを崩している。いつか、全てから逃げ隠れるように
姿を消してしまっても知らないぞ、と。
確かに、黒川も異変は感じていた。
今の対応もそうだ。どこか捨て鉢、投げやり。
もしかしてイツキは、深い深い崖の淵に立っている状態なのだろうか。
理由は解らないが、今にも身を投げてしまいそうな……いや、もう、落ち始めているのかも知れない。
珍しく深妙に黒川はそう思い、隣りのイツキの横顔を眺める。
イツキは酔いと眠気からか少し目をとろんとさせ、見ていたテレビ番組が終わると小さな欠伸をして、ソファから腰を上げる。
「……じゃ。俺、もう寝るね…」
「…………ああ」
イツキは自分が使っていたグラスを持ち、キッチンの流しに置き、そのまま、寝室に向かって行った。
黒川は一人、少し、考え事をする。
イツキは自分の物だ。どう扱おうが、自分から離れることは無い。と
普段から豪語している黒川だが、よくよく考えればそんな根拠は何処にも無い。
以前のような「契約」や「金」で縛られている訳ではないのだ。
ではなぜ、今、この状態が保たれて居られるのか……
『…ちゃんとイツキくんと話をしなければ駄目ですよ』
事あるごとに言われる一ノ宮の言葉が頭を掠める。
「………クソ。……面倒臭い……」
黒川は一つ大きく鼻息を付いて、もうとっくに空になっているグラスに口を付けた。
2021年05月18日
深淵・6
暫くして黒川はふうと溜息をつき、重い腰を上げる。
トイレに行き洗面所で歯を磨き、キッチンで水を一杯飲む。時間稼ぎのように。
そして、もう一度溜息を付き、寝室に向かう。
愚痴を聞くのも不満をなだめるのも好みではないが、まあ仕方が無い。
……このまま他所の男とヤリまくって、孕まれても困る。
そんな事を考える黒川には、まだ、余裕があった。
寝室へ入る。部屋は真っ暗。
淡い常夜灯のスイッチを入れる。
ベッドの毛布は少し膨らんでいる。
おそらくイツキは壁側を向き、身体を丸くしている。
拗ねて、唇を尖らせ、『……マサヤの馬鹿』などと言う。
黒川はベッドに近寄り、毛布を捲る。
けれど中は空っぽ。ただ、毛布が嵩んでいただけだ。
「……ふん」
自分の照れ隠しか鼻で笑い、次は、巣箱の入り口へ。
ウォークインクロゼットの扉を、一応、叩いてみる。
「……もう、いいだろう? いい加減にしろよ、イツキ」
返事はない。
「…お前が誰と遊ぼうが…、別に、文句は言わないだろう?……あとは何が不満なんだよ。
あちこちで…、男を引っ掛けて…、面倒になるのは…、俺の方なんだぜ?」
黒川はそう言って、返事を待たずに、巣箱の扉を開けてみる。
こちらも中は真っ暗だったが、困る程の広さではない。
しゃがみ込んで、足元の毛布を手繰り寄せる。
手繰り寄せ、捲り、掻き分ける。
不審に思い
……黒川は立ち上がり、扉の近くにある照明のスイッチを入れる。
明るく照らされた巣箱の中に、イツキの姿は無かった。
2021年05月19日
深淵・7
「…………」
黒川は空の巣箱を見て少し呆気に取られる。
そこに居るはずのイツキがいない。
巣箱には、今、黒川が入った寝室側の扉と、廊下に抜ける扉がある。
気付かぬうちに廊下側に出たのかと、黒川は巣箱を通り、一度廊下に出てみる。
けれど、やはり、イツキはいない。
「……うん。……何だ…?」
黒川は状況が読めず…、……呻りながらリビングを覗き、洗面所とトイレを覗き、また寝室に戻ってみる。
ぐるぐると周り、後ろを振り返り、巣箱を覗き、また廊下に出る。
入れ違いになるほど広い部屋ではない。どうやら、部屋に、イツキがいない。
黒川は玄関に向かう。………いつも施錠してある鍵が開き、……イツキの、靴が無かった。
「………イツキ?」
何か、腹の奥がヒヤリとして、一瞬、眩暈が起きる。
『イツキが逃げ出す』のは「今」なのかと、黒川は驚き、動揺する。
いや、こんな真夜中に、何の準備もせず……イツキは部屋着のTシャツ姿だったはずだ……、ふらりと外に出て何が出来る。
出来る事と言えば闇雲に街を徘徊するか、飛び降り自殺ぐらいだ。と
黒川は自分で思い、自分で、焦る。
「………あの、……馬鹿……!」
2021年05月21日
深淵・8
「……なに?……マサヤ。………どうしたの?」
「……………ッ」
取るものも取り敢えず、とにかく勢い、咄嗟に
黒川が玄関の取っ手に手を掛けた瞬間、扉が開く。
外に立っていたイツキは、目の前にいる黒川に驚く。
もっとも、それ以上に驚いたのは、黒川だったが。
「………イツキ。…………何だ?………何をしていた……」
「ん。ポカリ、買いに。コンビニまで行っちゃった…」
イツキは靴を脱ぎながら、あっけらかんとそう言う。
呆然と立ち尽くす黒川が邪魔で、…むしろ、何をしていたんだという風に、顔を向ける。
「……鍵も、掛けずに…、……不用心…だ……」
「ちょっと下の自動販売機までって思ったんだよ。…そうしたら、売り切れでさ…。…マサヤも飲む?」
イツキはコンビニのビニール袋からペットボトルを一本取り、黒川に差し出す。
黒川は、イツキの姿が見えなくなったことに動揺した自分を、どうにか必死に誤魔化してみる。
少し、鼓動が早い。声が掠れ、手が強張る。
差し出されたボトルを受け取る。その冷たさだけが、現実の様な気がする。
「じゃ。俺、寝るね。………あ、マサヤ…、俺、明日は朝から仕事だから…
……今日は、エッチ、無しにしてね。………おやすみ」
何事もなかったようにイツキはそう言って、廊下側の扉から巣箱に入ってしまった。
「………なんだ。………あの、馬鹿………」
黒川はもう一度、同じような言葉を呟いて
どうやら無駄な心配をしたと、自分で自分を笑う。
ひとり、眠るために寝室へと入り、
異様に喉が渇いていることに気付き、イツキに貰ったポカリを飲む。
息をつき、少し、考える。
2021年05月23日
深淵・おわり
以前にもイツキは、黒川の前から姿を消した事がある。
けれど
小野寺との一悶着の時の家出は、理由が解っていたし
クリーニング屋の2階の古アパートにいたのは、まあ、事故のようなものだ。
この夜のように
なんとなく、ただ漠然とした違和感だけを残し
ふいに居なくなられる事が
こんなにも驚くものなのかと、黒川自身が驚く。
得体の知れない不安が、じわりと、黒川ににじり寄る。
イツキがコンビニで買ってきたポカリを飲み干し
ベッドから立ち上がり、黒川は、巣箱を覗く。
中は相変わらず暗かったが
寝室からの光で、毛布の中のイツキが見えて
黒川は安堵する。
「……マサヤ。…しないって…、…言った……」
「…ああ。……寝るだけだ」
「……せま…」
黒川は巣箱に入り、どうしたって狭い、イツキの隣りに身体をねじ込む。
滅茶苦茶に犯し、思うところを洗いざらい吐かせてやろうかとも思ったが
今日はもう疲れたと、黒川はイツキを抱えて目を閉じる。
身体のあちこちに荷物があたる。頭の上には、ハンガーで吊ったコートの裾が掛かっていた。
深い崖の淵にいるのは、イツキでは無かった。
黒川が、イツキという深い闇の淵に立っていたのだった。
2021年05月25日
上の空
「……振り込みの確認は取れています。後は西崎さんが動くの待ちですね…。ああ、流血は無しの方向で。
…手打ちになったら大久保の地主と一席設けることになっています。…後は……」
事務所で黒川は、一ノ宮からの事務的な連絡を上の空で聞いていた。
一応、ああ、と返事はする。しかし、内容はまったく頭に入っていない。
朝。
目を覚ますと、狭い巣箱で寝ていたのは黒川一人だった。
朝と言っても、もう昼に近い時間。イツキは仕事に行ったらしい。
キッチンにはいびつな目玉焼きと少し焦げたベーコンが残されていて
………それを見て、少し安堵する自分に、黒川は驚き、呆れる。
あまり意識しないようにしていたのだが、やはり
イツキと一緒の時間を過ごすと、妙に、感情を揺さぶられる。それは、もう、解っている。
今更、好きだの嫌いだの、そんな感情は何の足しにもならないと割り切っているつもりでも
引っ掛かり、自分ではどうにもならないのが、この手のモノで。
「……横浜から、応援が欲しいと電話がありましたよ。……慶徳飯店と揉めていると。
……上が出て来ると厄介ですね。とりあえず明日、私が行こうかと………」
イツキがオカシイのは、なんとなく解った。
けれど理由も解らなければ、それを気にかける周囲も…自分も含め…、納得が行かない。
元来、他人にアレコレ気を揉むのは性に合わない。あまりにこじれると
感情は、怒りにも似たものに変わる。
俺の気を患わせるな、と。
「……仲介役は、関内の荘大夫で良いですかね…、……社長、………雅也?」
「………あ、ああ」
強い語気で一ノ宮に呼ばれ、黒川は慌てて返事をする。
始終、上の空の黒川は、一つ大切な事を忘れていた。
2021年05月26日
ピンキリ
その日、事務所の仕事が片付いたのは意外と早かった。
一ノ宮は広げた書類をガサガサとまとめ
「…後の確認は明日にしましょう…」と帰り支度を始める。
「………飲みに行くか…」
黒川がそう呟き、一ノ宮は顔を向ける。
今日の黒川はどこか仕事に身が入らず、早々に切り上げたのもそのせいだった。
「…帰って、休まれても良いのでは…?」
「………いや。『花うさぎ』の様子でも見に行くか。支配人が変わったんだろう?」
「はあ、まあ…」
一ノ宮は車を手配し、黒川と外に出る。
珍しく時間が空いたのだから、たまには早く帰れば良いものの
………まるで、逆に、帰りたくないかのよう………
「………そう言えば…。イツキくんと話はしたのですか……」
タクシーの後部座席で一ノ宮がそう尋ねると、黒川はぶっきらぼうに「…ああ」と答えた。
『話』と言ってもピンキリだろう。イツキの不調を解決するような重要な話は出来たのだろうか。
問題が解決していれば、黒川の表情も晴れ、今頃はとっとと家に帰っているはずだ。
一ノ宮はそっとケータイを確認する。そこにはユウからのメッセージが入っていた。
『イツキくん、今日も、飲みに行っちゃうみたいですよ』と。
「…………雅也…」
一ノ宮がそう口を開きかけると黒川は、何も言うな、と言う風に一瞥し
面倒臭そうに、手を、ひらひらと振った。