2021年06月01日
最近のイツキ
最近のイツキは
よく言えばいつもニコニコ穏やか。
悪く言えば、何も考えず、その場だけを凌ぐ生活。
何か嫌な事があっても、心が無ければ、傷付くこともない。
誘われれば飲みに行くし
そんな雰囲気になれば、抱かれてもいい。
黒川でさえその相手の一人で
別に。特別な男、では無い。
そう自分に言い聞かせていた。
「…イツキくん、仕事、辞めないよね?」
「……辞めませんよ」
「本当?……辞めちゃ、ヤダよ?」
その日はハーバルの棚卸しがあり、百貨店が閉店した後
イツキはミカと残り、慣れないタブレットを片手に商品を数えていた。
ミカは、少し前から雰囲気が変わったイツキを心配していた。
「ね。イツキくん。
…悩み事とかさ、…どうにもならない事とかあって、
前にも後ろにも行けなくて、もう詰んだ、って時でもさ
…ホント、時間が経つと、するっと解決する時もあるからさ。
だから……、えーと。……
ヤバい時は焦って動かなくても良いと思うんだよね」
「ああ、なんとなくそれ、解ります」
在庫の商品を広げて、確認して、また片付けて
イツキは、小さくため息をつく。
2021年06月04日
それぞれのイツキ
イツキに関しては、遅刻や、欠勤の心配は無くなったが
それでもどこか何か元気が無い様子で…ミカは気を揉んでいた。
しかも、それを、誰彼構わず相談する訳にもいかない。
ホールマネージャーの茗荷谷は、彼自身もイツキの不調を心配していた事もあり
ミカはたまに、話を聞いて貰っていた。
休憩時間だけでは足りずに、仕事帰りに、近くの店で話し込むこともしばしば。
茗荷谷は、それだけイツキを案じていたのだが
それを親身になって考えるミカに対しても、あまり思い詰めなければ良いなと
少し、心配とは別の感情で、思っていた。
関はイツキを誘い、何度か一緒に食事に行った。
イツキは良く食べ、飲み、笑い、関にかすかな期待を持たせるのだが
そこまでだった。
今は「来るもの拒まず」のイツキだったが
こと、関については、「一緒にご飯を食べる人」という認識止まりだった。
ミツオは
かなりの高確率で、イツキと楽しい夜を過ごしていた。けれど
イツキの後ろに黒川がいることは知っている。
自分だけのものにしたいだとか、状況を変えてやろうとか、それ以上の事は望んでいない。
ある意味、ちょうど良い距離感を保っていた。
ちょうど良い距離感だったのは佐野のポジションだったが
佐野は少々、性欲が勝り、失敗していた。
西崎に話が筒抜けなのも、駄目だろう。
松田は
一番まともにイツキを心配し、きちんと行動をしていたのだが
黒川相手に少し言い過ぎただろうかと不安になる。
あの男は、何を考えているのか、……いや、イツキを好いていることは間違いないのだろうが
それをどう態度で示すのか、解らない所が多過ぎる。
まあ、いざとなったら当てつけに
イツキを連れて逃げてやろう…と、半ば本気で考えるのだった。
2021年06月06日
小糠雨
もちろんイツキとて今更「仕事」をしたい訳ではない。
しかも相手は嫌な、少々趣味の悪い爺いなのだ。
また、腹が痛くなるほど異物を入れたり出したりするのだろうか。
それを見て笑われると、もうどうにも、自分が惨めで情けなくて
それでいて感じているあたり、救いようのない馬鹿だと自覚するばかり。
「…馬鹿は、マサヤじゃんか…」
ハーバルの仕事上がり。
ロッカーで黒いスーツに着替えながら、イツキは小さく呟く。
嫌な「仕事」を二つ返事で引き受けたのは、黒川の為では無い。
自暴自棄、という訳でも無いが……
酷いことでも納得出来ないことでも、何でも
目の前で起こることにいちいち、感情を揺さぶられるのに、飽きてしまった。
それに、それを試そうとしている黒川の意図も見え見えで、面白くない。
外に出ると、朝は降っていなかった雨がパラパラと落ち、道路を濡らしていた。
湿った空気と不快感に
イツキは何故だか、ふふふ、と笑った。
2021年06月07日
小夜時雨
黒川とて今更イツキを「仕事」にやる気はなかったが
売り言葉に買い言葉。つい、口が滑り、引っ込めるタイミングを見失った。
今日までバタバタと仕事が立て込み、ろくに部屋にも帰れなかったとか
こんな時に限って誘いも多く、別の部屋で一夜を明かしたとか。
そんなものは言い訳にすらならないけれど。
『悪かったな、嘘だ』と
メールを送れば済むだけの話。
「……歩いて来たのか?……雨だったろう?」
「んー。でも小雨だよ」
「……髪が濡れている…」
銀座の百貨店から、今日の待ち合わせの築地の料亭まで
歩いて、15分程。
霧雨のような雨は傘を差すのも考えてしまうが、確かに、髪や服を濡らす。
そうやって気付かないうちに、世界を変えてしまうのだ。
先に料亭に着いていた黒川は、入り口で女将に案内されるイツキに近寄り
濡れた髪に手をやる。
イツキはその手を、静かに払う。
「…平気。すぐ乾く。……どうせ後で濡れるし」
イツキは黒川の顔を見ずにそう言う。
黒川は、また、イツキは拗ねているのだと思う。
まあそれで『仕事』が捗るのなら、それも良いのかもと…
今みでなら納得していた考えを、黒川は、自分に言い聞かせる。
2021年06月09日
好色爺
「いやあ、イツキくんが来てくれるなんて嬉しいねぇ
今日は期待しちゃっていいのかな、ふっふっふ…」
座敷には問題の平塚会長と、秘書らしい男。
そして黒川とイツキ。
平塚はイツキが同席するとは聞いていなかったようで、途端に鼻の下が伸び
気難しい糞親父から、ただの好色爺いに変わる。
そうなるだけでも、本当に、イツキは役に立つ。
「ごぶさたしております。平塚会長。今日は美味しいお料理頂けるって聞いて、来ちゃいました」
「ああ、もう、なんでも!お酒もいいのがあるよ。さ、さ、隣においで」
イツキはにこやかに笑い、平塚の隣りに呼ばれ
挨拶がてら手など握られては、照れ臭くさそうにもじもじとする。
前菜の料理にさえ喜び、注がれた酒を綺麗に飲み、頬を赤らめる。
「ほら、ハモの天ぷら。こうやってな、骨を細かく切って……」
「ああ、全然残らないんですね。食べやすい。美味しい!」
平塚のベタなうんちく話しにも耳を傾け
実に楽しげ、和やかな雰囲気を醸す。
黒川は酒を飲みながら、イツキをチラリと伺う。
イツキは本当に、これが天職なのではないかと思う。
嫌がっているとは思えない。メシも酒も、その後のセックスも
込みで、実は、好きでやってることなのではないかと…
…だからこそ二つ返事で、「仕事」を引き受けたのだと…
そう、思いこむ。
「…黒川さま。こちらで少々、契約の話しをさせて頂いてよろしいでしょうか?」
「あ、ああ…」
仕事熱心なイツキが爺いの相手をしてくれている間に
黒川は秘書の男と、いくつかの案件を片付ける。
ふと顔をあげると
イツキは平塚に肩を抱かれ、太ももあたりを弄られ
酒を強要されていたが
軽くいなすのだろうと、黒川は気にも留めなかった。
2021年06月11日
仕事熱心
酒も進んで来たせいか、平塚の手は大胆になってくる。
もとより、それを咎める者もいない。
痴漢や、羞恥プレイや、その類のような。
黒川までが、その観客の1人なのだ。
「……ま、だ…、ダメですってば。…平塚会長……」
「…ん?……何?…、良くなって来ちゃったかな?」
平塚はイツキのズボンの上から、股間を弄っていたのだが
…中が、膨らんで来ると、窮屈で可哀想だと…勝手にジッパーを下ろしてしまう。
それでも手は止まらずに、爪先で表面をカリカリと引っ掻き
だんだんと湿ってくる様子を、下品に笑う。
向かいの席の黒川からは、平塚の手元の動きは解らないが
だいたいの想像はつく。
イツキもイツキだ。息を荒げ、もじもじと身体を揺らし
『…ダメです』などと言ってみても、拒絶にもならない。
…結局、コレが好きなんだろうと、黒川は少しだけ鼻で笑う。
「……あっ……ん」
丁度良いところに当たったのか、思わずイツキの口から
本気の声が漏れてしまう。
黒川は顔を上げ、イツキを見る。
イツキは、本意では無くつい漏れた声に、慌てて口をつぐみ
平塚を見て、照れ臭そうに、はにかんで見せる。
そして、自分を見ている黒川に気づくと
何の表情も浮かべずに、静かに、視線を逸らせた。
無表情
無表情で視線を逸らすイツキに黒川は
『可愛げのない』だの『勝手にやってろ』だの
そんな事を思う。
酒を煽りすぎて、隣りで書類の確認を求める秘書は多少困惑する。
「…駄目です。平塚さま。…今、じゃないでしょ?
今は俺に、ご飯、食べさせてくれるのでしょ?
俺、あの、鉄板で包まってるの、食べたいんですけど…」
「あっはっは。仕方がないなぁ、イツキくんは。どれ、取ってあげようか…」
とりあえずイツキは場を凌ぎ、平塚は上機嫌でイツキの為にと
鉄板の上のホイル焼きを外してやる。
イツキはその間に、カチャカチャとズボンとベルトを直して
また、不意に黒川と目が合い、慌てて、顔を逸らす。
「黒川さま、申し訳ありません。少し、ここの金額に不備がありまして…
確認して来てもよろしいですか?」
「……あ、ああ」
パラパラと書類を捲っていた秘書は席を立ち
向かいの平塚の傍に寄る。
耳元で何か話していたようだが、決着は付かないらしい。
「……糞。イイ席を邪魔しよって……。すまんな黒川くん、ちょっと抜けるよ?」
平塚はそう言い、どこかに電話を掛けるために秘書と一緒に一旦、座敷の外に出た。
部屋には
イツキと黒川の二人が残る。
2021年06月14日
沈黙
『大サービスだな。張り切り過ぎだろう。
そんなに平塚のジジイが好きだったか?
まあ、お前は何でもイイんだよな、男なら』
部屋に二人。
大した考えもなくいつもの調子で、黒川はつい口を開きかけたが…
さすがに最近の動向からこれは駄目かと…止めておく。
逆にイツキが何か言うかと、上目遣いで見やるも
イツキは少し黒川を見ただけで、また、目を逸らせてしまう。
『言いたい事があるなら、言えよ』
と問えば
『別に』
と、どこぞの女優のような答えが返ってくるのだろう。
何の進展もないまま、じきに平塚と秘書が場に戻ってくる。
イツキはぱっと顔をあげ、綺麗な営業用の笑みを浮かべる。
黒川の腹の底に、陰鬱な気持ちが沈む。
イツキとの距離が遠く…気持ちが離れているのだと、
今になってようやく、気付いたようだった。
2021年06月16日
雨上がり
程なくして会食は終わる。
いくつか仕事の契約を残していたが、平塚の機嫌も良く、望む条件で締める事が出来た。
何も問題は無い。
後は、暗黙の了解。オプションのように平塚がイツキを持ち帰るだけだった。
「…お世話になりました、黒川さま。書類は改めて事務所の方に届けさせます」
「……ああ」
「この後はどうされますか?…よろしければ…、良い店がありますので…そちらに…」
「……いや、いい」
秘書との会話は上の空。
座敷を出て、女将に挨拶をし、料亭の外に向かう。
後ろから歩いてくる平塚は、イツキの肩を抱き、イツキの耳元で何か卑猥な言葉を言っているのか
ひっひっひと下品に笑う。
この後の予定を、わざと具体的に話しているのだ。
イツキは苦虫を噛み潰したような顔をし、それでも健気に、笑ってみせる。
「……雨も上がったようですね。……ああ、ちょうど、2台とも車が来たようです」
雨上がりの濡れた道路を照らして、ハイヤーが料亭の前に到着する。
「じゃあ、黒川くん、またね」と平塚は簡単な挨拶をして
イツキを連れ、車に乗り込もうとする。
その時、この夜、初めて
黒川はイツキと、まともに目線を合わせた気がする。
イツキの笑顔が、泣き顔に見えて
黒川は咄嗟に、イツキの腕を掴んでいた。
2021年06月17日
平謝り
咄嗟にイツキの腕を掴んでしまった黒川だったが
その後をどうするかは、考えていなかった。
扉の開いたハイヤーの前で、平塚と イツキ、そして 黒川が
それぞれ腕を引いたまま、立ち尽くす。
「…ん?」
と言う顔をして、平塚が黒川を見る。
「申し訳ない、平塚さん。 ……こいつは…、駄目です…」
「え?」
と言う顔をして黒川を見たのは、イツキだった。
黒川は、ようやく腹を決めたようだった。
イツキの腕をさらにぐいと引いて、平塚から引き離し、自分の懐に入れる。
「……申し訳ない。こちらの手違いでして。……こいつはもう、客は取らないんです…」
「はあ?黒川くん、ここまで来てそれは無いでしょう?」
「……申し訳ない」
黒川にしては珍しい平謝りだった。
お楽しみの直前で 拒絶された平塚は当然、機嫌を損ね、 ダラダラと文句を言っていたが
まあ、店先で若い男を巡って、 大騒ぎするのも格好が付かない。
最後は秘書の男に宥められ、この埋め合わせは何かで 必ずと約束を交わし
平塚と秘書はハイヤーに乗り込み、イツキと黒川の前から姿を消した。
「……マサヤ、どういう事?」
「……そんなの、俺が聞きたいくらいだよ」
何の気紛れかと、イツキは黒川を見上げる。
黒川は、余程自分でも解らなかったのか、少しむくれた様子で、鼻で息をついた。
2021年06月19日
違う世界
呼んであったハイヤーの運転手には金をやって、帰し
酔い覚ましに少し歩くか、と、黒川は夜の街を歩き始める。
イツキはとりあえず後を付いて行くが
黒川がいつ振り返り、怒り出すのではないかと…内心、ヒヤヒヤしていた。
…ちゃんと、言われた仕事はして居たのに…
媚を売り過ぎたと、色目を使い過ぎたと。…他にも、何か……
街中を少し抜けると、大きな河川に出る。
整備された遊歩道にはベンチが並び、恋人たちが肩を寄せ合っている。
黒川は出来るだけ人がいない場所を選び、ベンチに座ると、煙草を口に咥える。
火をつけ、一服。 イツキは離れて立ち、水面と遠くの白い橋を眺めていた。
「……イツキ」
「……えっ、……何?」
黒川が不意に 声を掛ける。
イツキは声が聞き取れなくて、仕方なく、黒川の傍による。
…怒っては… いない様子。
けれど、続く言葉に、…イツキは自分が酔い過ぎていて、
何か違う世界の言葉を聞いているのではないかと…耳を疑った。
「……つい仕事を振ったが……間違いだった…。
もうお前を仕事にやる気はない。……イロイロと、すまなかった…
もう、お前を他の男に抱かせる気はない……」
2021年06月21日
黒川の言葉
黒川の突然の言葉に、イツキは何事かといった様子。
息を止め目を見開いて、黒川の顔色を伺う。
黒川は、神妙な面持ちで、深い息を一つつく。
口の辺りにをやり、次は何を言うのだったかと、思いあぐねている。
イツキが
色々と考え過ぎ、嫌になってしまったように
黒川も
あれこれ虚勢を張り、強い言葉を使うのが…面倒になってしまった。
一ノ宮のアドバイスを参考にした訳ではないが、何度か反芻するうちに染みてしまった。
顔を上げると、どこかまだ不安気なイツキと視線が合う。
黒川は表情を緩め、 チョイチョイと手招きをし、イツキをベンチの隣りに座らせる。
「……マサヤ、今日、…変。……飲み過ぎた?」
「……そうかもな」
そう言って黒川が静かに笑うものだから、イツキは一層、不安になる。
今までは大概、黒川の優しい言葉は、悪い事柄とセットになっているのだ。
そうでもなければ、今の言葉の意味が解らない。
『他の男に抱かせないイツキ』では、黒川とって、何の価値も無いのでは無いのか。
イツキがあまりに不信の目を向けるので
黒川にも、イツキに話が伝わっていないと解る。
うやむやにしてこの場はお開きにしたかったが、
それでは何も解決しない事も、解る。
「……イツキ。……嫌な仕事を振れば、お前が…泣きついてくるかと思ったんだが…
…まあ、その。…引っ込みどころを 見失ってな…
もう、今は、お前が……泣いたり痛がったり、そういう事は…させないつもりだ。
お前が何か、ヤケを起こして、遊び回ってるのも……好かん。
もう少し、……俺の傍にいろ…。
この間、真夜中にお前の姿が見えなくなった時
正直、慌てた。……だから…」
2021年06月22日
精一杯
黒川は黒川なりに言葉を探しながら、極めて稀に、真面目に、イツキと向き合う。
向き合うと言っても、正面切って顔は見れない。
流石にこれ以上は…お互い目を見つめあって心情を吐露する…などとは出来ない。
そしてようやくイツキにも、この夜は、何かいつもと違うと気付く。
「…だから、だな…
前に、 お前が不意に姿を消した時にも…思ったが…、何度か、思いはするんだが …
ナカナカ…な。いや、まあ…アレだ…
ともかく、もう少し、お前を、大事にしなきゃいけないなと…思ったよ」
そこまで言って、黒川は隣りに座るイツキを伺う。
イツキはやはり見開いて、驚いた顔をしていたが…先刻までとは少し違って
どこか嬉しそうに、口元を緩めていた。
黒川は照れ隠しか、ふんと、鼻で一息つく。
「…ふん。…まあ、そんな所だ。イツキ…
……あい…
……空いている時間に温泉でも連れて行ってやるから、今度…な」
黒川が吐いた台詞は予定とは違うものだったが
今は、これが、精一杯だった。
2021年06月24日
イツキのターン
黒川の言葉をイツキは笑みを浮かべながら嬉しそうに聴く。
目があった黒川が、我に返り、気まずそうに目を逸らす。
「……何だよ…」
「…びっくりした。……マサヤがこんな風に言ってくれるなんて…初めてじゃない?」
「……ふん」
確かにそうかも知れない。…それに近い事はあったかも知れないが
2人の時間は大抵ベッドの中で、肝心な話に行き着く前に、コトが始まってしまっていた。
真夜中とは言え、流石に川沿い遊歩道のベンチで出来ることは
抱き締めて、キスをするくらいだった。
「……俺にばかり、話させるな。……お前は…、どうなんだよ…」
「……んー?」
長めのキスを終えて、また少し身体を離して、ベンチに横並び。
黒川はイツキの肩を抱く。イツキは黒川の肩に頭を乗せる。
河川の暗い水面は特別綺麗な訳では無かったが、水が流れて行く様は、いい。
眺めていると落ち着いてくる。胸の奥にあった苦々しいしこりが、すうっと溶けて流れて行く。
『言いたい事があるなら言えよ』では駄目なのだと、黒川も多少は学んだようだ。
「……イツキ。ここ暫く、…変だったな。……俺に何か問題があるなら、…聞く…」
「……俺、変だった……?」
「ああ。……わざわざ松田が心配して来るくらいだ。……変だろう」
「………ふふふ」
先程までは黒川が迷い、言葉を探し、どう想いを伝えようかと思いあぐねていたが
今度はイツキの番だった。
何から話すか、どう話すか……少し考え、結局シンプルに、ただ本当のことだけを話すことにした。
「……一ヶ月、…二ヶ月前だったかな…。……事務所でマサヤが、男の子と一緒のとこ、見たんだよね…」
2021年06月26日
怜音
「 ……事務所でマサヤが男の子と一緒のトコ、見たんだよね…」
「…男の子?」
「うん。俺と一緒か…ちょっと下かなってくらいの…可愛い子…」
「……ああ、…レノンか?」
イツキがぽつりと呟くと、返って来たのは意外な名前で、驚く。
「…日本の子じゃ無いの?」
「いやいや、日本人だ。りっしんべんに令と音でレノン。…今時の名前ってやつか…
歳は13、…14だったかな …。お前よりぜんぜん若い……」
聞きたいのはそんな事では無い、と、イツキは黒川をチラリと上目遣いで見る。
その視線に、黒川も気付く。
「…あー。… 借金まみれの爺さんの担保だ。…その辺は、お前と一緒か…」
「……その子にも、……そういう事、したの?」
「…まあ。……俺の仕事の内だろう。…よくある話だ」
「そうだね」
そう言ってイツキは少し浮かない顔を見せる。
自分のような境遇の子を食い物にする男の 話だ、そう楽しい話しでは無い。
黒川は、単純に、イツキがヤキモチを妬いているのかと思った。
誤魔化すように取り繕うように、いつになく、言葉を重ねる。
「何だ、そんな事で拗ねて居たのか?……言っただろう仕事だ、仕事。
第一、レノンは……全然クソで使い物にならなかったんだぞ? お前とは違う。
ギャーギャーと喚くばかりで艶も色気も無い。
一度、客を取らせたら…相手に噛み付いてな、大騒ぎになった。
お前とは違う。
お前は…泣いて叫んでも…良かった…その素質が、あるのが解った…」
黒川にしては、イツキを褒めているつもりだった。