2021年06月07日
小夜時雨
黒川とて今更イツキを「仕事」にやる気はなかったが
売り言葉に買い言葉。つい、口が滑り、引っ込めるタイミングを見失った。
今日までバタバタと仕事が立て込み、ろくに部屋にも帰れなかったとか
こんな時に限って誘いも多く、別の部屋で一夜を明かしたとか。
そんなものは言い訳にすらならないけれど。
『悪かったな、嘘だ』と
メールを送れば済むだけの話。
「……歩いて来たのか?……雨だったろう?」
「んー。でも小雨だよ」
「……髪が濡れている…」
銀座の百貨店から、今日の待ち合わせの築地の料亭まで
歩いて、15分程。
霧雨のような雨は傘を差すのも考えてしまうが、確かに、髪や服を濡らす。
そうやって気付かないうちに、世界を変えてしまうのだ。
先に料亭に着いていた黒川は、入り口で女将に案内されるイツキに近寄り
濡れた髪に手をやる。
イツキはその手を、静かに払う。
「…平気。すぐ乾く。……どうせ後で濡れるし」
イツキは黒川の顔を見ずにそう言う。
黒川は、また、イツキは拗ねているのだと思う。
まあそれで『仕事』が捗るのなら、それも良いのかもと…
今みでなら納得していた考えを、黒川は、自分に言い聞かせる。
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